第51話 僕のガーネ
レオンハルトが3歳の頃。
シュナイダー家の別荘で、華やかなガーデンパーティが催された。
この日、僕の部屋で、僕はガーネと初めて出会った――
3歳のレオンハルトは、私室の書斎机に向かっていた。
幼い年齢に似合わぬ、落ち着いた空気が漂う。
弦楽四重奏による演奏の音が窓から舞い込むたび、レオンハルトの眉がひくりと歪む。
時折響く笑い声に誘われるように窓から外を覗き、パーティを恨みがましく見つめた。
同じ別荘地の貴族の子供たちが、風船を手に楽しそうに駆け回っている。
だが主催の、公爵家の一人息子レオンハルトの姿は、華やかなパーティにはない。
翌日の物理の授業に備え、教科書をひとり睨む。
「……何が楽しくて、あんなに走り回るんだろう。僕には理解できない」
この時すでに、レオンハルトは次期公爵の期待を背負い、高度な教育を施されていた。
3歳にして読み書きも習得したレオンハルトにとって、子供の遊びなど、流れる風景のように価値を持たなかった。
だがそれでも、手に入らぬ何かを羨むように不思議と苛立ちが込み上げる。
再び教科書に視線を戻し、図を指先でなぞる。
物理は順序立てれば、同年代の子供を読み解くより容易かった。
「ふぅ……これなら明日の授業も」
満足げに息をこぼした刹那――
背後から、天使がささやくような柔らかな声が降り注いだ。
「あなたまだ小さいのに、もうご本が1人で読めるの? すごいの」
振り向くと、美しいサファイアの瞳を持つ少女が覗き込んでいた。
珊瑚色の滑らかな髪が、可憐さをさらに引き立てる。
まるで絵本から飛び出した妖精のようだ。
――と、レオンハルトの視線は釘付けになる。
呼吸さえ忘れ、レオンハルトは小さく息を呑んだ。
だがすぐに我に返る。
レオンハルトは、3歳までの人生で最も強い叫び声を放った。
「ぅぎゃああーっ、き、君は誰!? なっ……どうやってここに入ったの?」
後ろ手に手を組んだまま、少女は柔らかく微笑みをこぼした。
「あ、ふふ。ごめんなさい。私の名前はガーネット。ガーネット・ベルフィオーレよ。ちょっとお屋敷の中を探検していたの。そうしたら、ここの扉が少し開いていたから入っちゃった」
ふにゃりとした締まりのない微笑みに、レオンハルトの心臓はとくりと跳ねる。
動揺を押し隠すように、鋭い声を叩きつけた。
「……なっ、勝手に他人の部屋に入るのは不法侵入なんだ。でていけっ!」
「むー、そんなに怒らなくてもいいのに」
ガーネットは、愛らしく唇を尖らせてみせる。
だが、花が咲いたように瞳をパッと煌めかせ、
「あ、そうだわ。じゃあ私があなたとお友達になれば、もう『ふほうしんにゅう?』ではないわよね。遊びに来ただけだもん……あなたのお名前は?」
流れるような問いかけに、レオンハルトの口元が動きかけた。
だがすぐに唇を固く引き結び、寸前で言葉を呑み込む。
「……っ、答えるはずがないでしょっ、君と友達になんてなりたくないし!」
「あなたっていじわるね。でも大丈夫、私ちゃんとおぼえてきたもの。シュナイダー家の子って、たしか。えーっとレ、レぇ~…………レオンっじゃなかったかしら。そうでしょレオン?」
――レオン。
そう呼ばれた瞬間、レオンハルトの胸にくすぐったいような歓びが芽生える。
両親でさえ、そんな風に愛称で呼んでくれたことはなかった。
自然と上がる口角に抗うように、レオンハルトは意図的に声を強める。
「れ、レオンなんて気安く呼ばないで! 僕の名前はレオンハルトだっ」
「別にいいじゃない、レオンでもレオンハルトでも。特別に、私のこともガーネって呼んでいいわよ。パパ様とママ様しか呼ばないんだからっ」
突然呼び方を押し付けられ、レオンハルトは困惑したように眉を下げた。
「……別に僕は君のこと特別に呼んだりなんて」
すると、ガーネットが鋭く声を差し挟む。
「もーうっ、レオンったら素直じゃないのね。こんなところに閉じこもっているから、そんなに怒りっぽくなるの。ママ様も研究が上手くいかないとイライラしてるもの。ほーらっ」
ガーネットはレオンハルトの手を勢いよく握った。
3歳のレオンハルトにとって、4歳のガーネットの手は果てしなく大きい。
その瞬間、初めてガーネットを年上だと思った。
不思議と、振りほどく気にはならなかった……。
「さ、一緒にパーティで遊びましょう、レオンっ!」
花が咲いたような微笑みが、レオンハルトの目の前に広がった。
自分にだけ向けられたその笑みに、トクンと胸が高鳴る。
この笑顔をずっと見ていたい。
――そう、心の奥で願った。
ほとんど力を込めなかったガーネットだが、魔法にかけられたようにレオンハルトは椅子から立ち上がる。
まるで絡まった糸がほどけたような、軽やかな感覚がそこにあった。
「そんなに走ったら危ないよ…………ガーネったら!」
それからはガーネがいるパーティにだけ、僕も参加するようになった。
どんなに退屈で色褪せた世界でも、ガーネさえいれば、そこは宝石が煌めいたみたいに色鮮やかに輝いていたから。
僕はただ、ガーネが傍にいてくれれば……。
その太陽みたいな笑顔で僕を照らしてくれれば、それ以外何も望まないのに。
ガーネ……ガーネ…………っ。
――物語は再び、月明かりの差し込む部屋へと戻る。
コールに剣先を向けられながら、レオンハルトは憎悪を込めて睨みつける。
拳を白くなるほど握り締め、奥歯をぎりぎりと軋ませる。
心の奥底の感情が叫びとなって迸った。
「ぼくが、僕が先にガーネを好きだったのに! どうして……っ、どうしてお前なんかにっ‼」
その時――ガンッッ。
短い衝突音と同時に、扉が勢いよく開いた。
雷が轟いたように、レオンハルトの視界は真っ白に染まった。
そのまま、崩れ落ちるように倒れ込む。
背後の扉が、レオンハルトの後頭部に直撃したようだ。
「おっと」
扉を開けたのはゲオルグだった。
レオンハルトの荒ぶる叫びに慌てて駆けつけたのだが、止めの一撃を与えてしまったらしい。
普段と変わらぬ冷静な表情のまま、ゲオルグは気絶したレオンハルトの頬を叩いて意識を確認する。
呼吸を確認したゲオルグは、親指をぐっと立てた。
ようやく、コールは安堵の息をこぼした。
ガーネットへ向き直ると、珊瑚色の髪を優しく撫でる。
「姫様、大丈夫か?」
「ええ、大丈夫よコール……」
そしてどこか照れたように、ガーネットは顔を上げた。
「ねえ、コール。あなたがレオ、だったのね」
ガーネットの唇から、『レオ』という言葉が響く。
瞬間、コールの琥珀の瞳が綺羅星のように瞬いた。
「…………思い、出したのか」
歓びと、心配が混じったような声色。
恥じらいをにじませながら、ガーネットは静かに頷きを落とす。
「今さっき思い出したの…………レオ」
柔らかな濃紺の髪を掻き、コールは気恥ずかしげにはにかんだ。
「姫様からレオって呼ばれるのは、懐かしいな。それでいてこそばゆい。コールでもレオでも、コールレオンでも、姫様の好きに呼んでくれ……いててっ。安心したら、痛くなってきた」
コールの左肩は、布地に血がべったりとにじんでいる。
斬られた上に動き回ったせいで、傷が広がってしまったようだ。
じんわりと服に赤が広がっていく様子に、ガーネットの声にも不安が膨らんでいく。
「いけないっ、早く傷の手当て……きゃっ」
ガーネットの気遣いも置き去りに、コールは長い腕でガーネットを抱きしめる。
先ほど中断してしまった抱擁の時間を取り戻すように、じっくりと……。
普通ならば護衛が主人を抱きしめるなど、任務以外(そんな任務はない)では言語道断。
しかし、ゲオルグはそっと目を逸らした。
何も知らない顔で、レオンハルトを肩に抱えて部屋から退室した。
コールには、長く悔やみ続けていたことがあった。
それは、ガーネットが賊に襲われた14年前のあの日。
ガーネットに傷を負わせてしまったこと。
あの時、護れていたら、庇えていたら……
そうしたら、姫様は傷モノ令嬢なんて呼ばれることもなかったのに。
後悔の念とともに、コールは呟くように声を漏らす。
「今度は、姫様のことを護れたかな……」
コールの声音から、ガーネットはわずかな後悔を感じ取る。
感謝の想いを込めるように、柔らかな声を紡いだ。
「もちろん、あなたはいつだって私を護ってくれる。今回だって私は傷ひとつないわ、あなたのおかげよ。本当に何度感謝しても、し足りないくらい」
「そっか……あは。なら、よか、った…………」
14年という後悔の歳月がほどけ、コールの喉から安堵の声が洩れた。
それと同時に、コールの意識がふわりと途切れる。
ガーネットの華奢な身体へ、静かに身を預けた。
突然のしかかった岩のような重みに、ガーネットは驚愕した。
だが、すぐにコールが意識を失っていることに気づく。
「……コール? コール、コールっっ……!?」
預けられた重みをこぼすまいと懸命に抱きかかえ、祈るように必死で呼びかける。
だが返事は返ってこず。
ガーネットの悲痛な叫びだけが室内を震わせるのだった……。
お読みいただきありがとうございます。
次の物語は――
ガーネット救出から半日が過ぎた。
緊迫が遠い過去のように、穏やかな時間が流れる。
そして、ガーネットとコールの関係にも変化が訪れ……。
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