第44話 だって、すべては君のためだから
「……おかえり、ガーネ」
鍵のかかった室内には、ガーネットとレオンハルトの2人だけ。
逃げ場のない静寂が、ガーネットの素肌を不気味に撫でていく。
息を吸うと……何の香りだろうか。
甘い香りが肺を満たしていく。
ガーネットはレオンハルトの瞳を真っ直ぐに見据え、眉をひそめた。
「おかえりって、何かの冗談なの? ……ルビィはどこにいるの!?」
不安から、つい声を荒げる。
ガーネットとは裏腹に、レオンハルトは天使のような柔らかな微笑みを浮かべた。
そのコバルトブルーの瞳は凪いだ海のように静かで、底が見えない。
「あの子なら平気だよ。ガーネにべったりでちょっと邪魔だったから、少し離れてもらっただけ……今頃、コール・ガルシアあたりが見つけているよ」
∻❖∻
――ギャアギャア。
貴族の別荘地とはいえ、一歩森の奥に踏み込めば、闇が支配した恐ろしい世界を露わにする。
「ルビィぃ! ルビィっ!」
探し人の名を叫びながら、コールはよどんだ森を突き進んでいた。
だが名を呼んでも、森に溶けるように吸い込まれるだけ……。
流石にこんな森奥まで踏み込むはずがない。
――そう理解しつつも、引き返す前にもう1度森の奥へ呼びかける。
「ルビィぃぃ! どこだぁぁーっ!?」
返ってきたのは、暗闇に揺れる森のざわめきと、動物の奇怪な啼き声のみ。
小さくため息を落とし、コールが踵を返したその時、
「コール? どうしたの?」
鈴を鳴らしたような愛らしい声が、背後から響いた。
馴染みのある声が耳に届く。
コールは雷鳴が走ったように振り返った。
スカートの裾を寄せ、何かを包んだルビィが佇んでいる。
転がるように駆け寄った。
ルビィの無事を確かめるように肩に手を添える。
「ルビィ! こんな森の奥に1人で入って危ないだろっ。一体、何をして……」
コールの視線が落ちた先――
ルビィのたゆんだスカートの中には、シロツメクサの白い花が宝石のように身を寄せ合っていた。
皆が必死に探し回っていたことなど知らないルビィは、花がほころぶように笑顔を咲かせる。
「ふふー。これでね、ママさまと花かんむりを作ろうと思って集めてたの」
スカートのシロツメクサをぽろぽろと落としながら、ルビィは導くように歩いていく。
ルビィの向かう先には洞窟があった。
背丈の高いコールでも、わずかに屈めば入れるほどの小さな洞窟だ。
洞窟の中には、シロツメクサの花が積み重なっている。
だが、その量が明らかに常軌を逸していた。
まるで誰かが意図して積んだように、こんもりと盛り上げられている。
祭壇の供え物のようなその盛り方に、コールも思わず首を傾げる。
何だこの量……
ルビィが一人で運んだとは到底思えない量だな。
まるで、何かに誘い込まれたような…………?
微かな疑念が胸を掠めたものの、ルビィを発見した安堵が勝る。
コールはルビィを腕に抱え、ガーネットが待っているはずの別荘地へ足を踏み出した。
一方、ガーネットは閉ざされた室内にいた。
コバルトブルーの視線に絡め取られ、一歩も動けず硬直状態。
レオンハルトの瞳は、余裕を映したように弧を描く。
幼馴染みとしての直感が働いたのか。
ガーネットの胸には、危うい予感が広がっていた。
「ごめんなさいレオン。私はルビィを探しに行きたいの……だから、そこを通して」
不穏な視線を避けるように、慎重に足を踏み出す。
レオンハルトの表情を窺いながら、鍵のかかった内鍵へと手を伸ばした。
――だがその内鍵は、レオンハルトの手によって塞がれてしまう。
「だーめ。行かせないよ」
愉悦に満ちた笑みを口元に刻み、レオンハルトはそっと、秘密を明かすようにガーネットの耳元で囁きを落とす。
「ねえガーネ。あのルビィって子供はさ…………ガーネの未来の娘なんでしょ?」
瞬間――
ガーネットの青碧の瞳が火花のように迸った。
半歩下がったガーネットは唇を震わせ、か細い声を浮つかせてしまう。
「……え!? な、何を、言っているの」
「ふふ。動揺してるガーネも可愛い。別に隠さなくてもいいよ。ある人が教えてくれたから。ガーネが宿泊する宿屋も合っていたし、間違いない」
余裕に満ちた声で語りつつ、しなやかな指先でガーネットの頬を愛でるように撫でていく。
「あの子がもし僕の子なら、100歩譲ってまあ良しとしたけど、すぐにわかった…………あの子は、僕の子じゃない」
絶対零度を思わせるほど冷え切ったレオンハルトの声が、その場の温度を奪う。
背すじを撫でられたようなぞくりとした恐怖が這い、思わず身を強張らせた。
ガーネットの警戒心など、レオンハルトは気にも留めない。
レオンハルトはガーネットの頬から指先を滑らせ、そっとくちびるに触れる。
優しく弄ぶように、支配するように……柔らかな唇をなぞっていく。
やがて、少年のように無邪気な笑みを輝かせ、嬉々として目的を告げた。
「だからさ。ガーネがあの子供を身籠らないように、この場所に隠しておくことにしたんだ」
その言葉が耳に届いた瞬間、ガーネットの思考は停止した。
だがすぐに息を吹き返すように、怯えた瞳でレオンハルトを見つめた。
「……な、何を言っているのレオン。隠しておくって……わたし、を!?」
「大丈夫。大切なガーネに無体を働くなんて、僕はしないから。ただ、あの男から隠しておきたいだけだよ。時が過ぎたら、すぐにこの場所から解放してあげる」
何気ない会話のように、レオンハルトは柔らかな声音で紡ぐ。
だが、ガーネットは激しく首を振った。
「ばっ、馬鹿なこと言わないで。私はルビィを探しに行くわ!」
普段の穏やかなガーネットとは思えぬ、はっきりとした拒絶の声がこだまする。
ふと視線を落とすと、内鍵を塞いだレオンハルトの手が外れていた。
内鍵を開けようと手を伸ばす。
だが……
「……あ、れ?」
ふわり、と重力が裏返ったような、身体が浮き上がった錯覚に襲われる。
な、に?
身体が動か、ない……。
視界が、靄がかかったように白く霞む。
地面が離れるように意識が遠のいていく。
ぼんやりと遠ざかる意識の中――
レオンハルトの声が静かに脳裏に響いた。
「あ、やっと効いてきたね。この香……甘い匂いがするだけで効かないかと思った」
足元から崩れゆくガーネットの身体を、レオンハルトはそっと、拾い上げるように腕に収めた。
「アイツらが諦めるまで、少し眠っていてね…………おやすみ、ガーネ」
レオンハルトの熱を帯びた唇が、ガーネットの額に柔らかく落ちていく。
抗う術などなく、ただ静かに、ガーネットは瞼を沈めるのだった。




