第41話 湖上のプロポーズ
煌煌と輝く湖の上。
ガーネットとレオンハルトは2人、ボートに身を預けていた。
爽やかな風が吹き抜けるたび、木々が囁くようにさざめき、湖面は淡い光を揺らしている。
湖の中央まで漕ぎ進んだところで、レオンハルトはオールを持つ手を休めた。
視線の先には、風でそよぐ髪を手で押さえながら、風景を見渡すガーネットが佇んでいる。
水面のきらめきが反射し、ガーネットの青碧の瞳は水の精霊の祝福を受けたようにゆらゆらと輝く。
その美しさに息をするのも忘れ、レオンハルトは心ごと奪われた。
ああ、まるでこの世界に2人きりみたいだ。
このまま2人で、どこか遠くへ行けたらいいのに……。
夢現に、レオンハルトは2人の世界に浸っている。
だが、その数メートル離れた距離には、ボートに乗ったコールが控えていた。
ゲオルグも湖畔のほとりで静かに見守っている。
万が一に備え、コールは周囲に気を配っていた。
もちろん、2人の会話が気にならないわけがない。
コールの意識は、自然と会話を拾おうと声を追っていた。
柔らかな風がボートを撫でるように通り過ぎていく。
ガーネットはレオンハルトへ視線を向けた。
「風が気持ちいいわね」
「あ、ああ……そうだね」
ガーネットの柔らかな声が耳を撫でる。
レオンハルトは夢見る深淵から引き戻された。
おっといけない。
あまりの心地よさに、意識が遠のいてしまった。
せっかく邪魔者を追い払って、2人きりになれたんだ。
この好機を、何としても掴み取らなければ……!
はらりと落ちた前髪を、指先で払いのける。
その仕草で、少しだけ気持ちが引き締まった。
緊張を悟られぬよう、レオンハルトは普段と変わらぬ穏やかな微笑みを浮かべた。
「カイザー殿下と婚約解消して10日ほど過ぎたけど、もう落ち着いた?」
ガーネットは睫毛をふるりと揺らす。
「そっか。まだ10日くらいなのね。もう遠い昔みたいに忘れてしまっていたわ。ルビィが来て、毎日が慌ただしくって、それでいて楽しくて……」
レオンの前では口にできないけれど――
ルビィの父親を探し出すという使命もあるためか、カイザー殿下と婚約していたことさえ記憶の彼方に置き去りにしてしまったみたい。
あんなに苦しかったのにもう忘れてしまうなんて……。
ふふっ、私って自分が思うより現金なのかしら。
気づけば、ガーネットの口元には柔らかな笑みがほどけていた。
そんなガーネットを視界に捉え、レオンハルトは安堵の微笑みを浮かべる。
「どうやらもう心配はいらないみたいだ…………ねえ、ガーネ」
「なぁに、レオン」
返事をするよりも先に、レオンハルトの長い指先がガーネットの眼前へと差し出された。
「……手を出して」
しなやかだがペンダコのできた指先は、ガーネットを求めるように差し伸べられる。
警戒心を微塵も持つことなく、ガーネットはレオンハルトの手のひらに華奢な手を重ねた。
手のひらに触れたそのぬくもりを、レオンハルトはそっと手の中に収める。
これから告げる言葉から逃がすまいと、逃げ道を塞ぐように力強く握り締めた。
ガーネットのぬくもりが勇気を与えてくれる。
緊張した面持ちのまま、ゆっくりと言葉を紡いでいく。
「これは冗談とかではなく、さ。僕はガーネを妻に迎えたいと本気で考えている」
そっとひと息吐き、
「それなりに多くの令嬢に言い寄られたけど、僕の心は1ミリも動かなかった。動かなかったのは、僕の心には、ずっと昔から……ガーネが住んでいたからなんだ」
ガーネットの手を、ゆるやかに引き寄せる。
そしてぬくもりを求めるように、手の甲を自分の頬へ擦り寄せた。
「ガーネット……僕は、君のことを愛してる」
レオンハルトの紡ぐ言葉と仕草を、ガーネットはぼんやりと見つめていた。
だがハッと我に返り、まばたきをひとつ落とした。
あい、してる……?
レオンが…………私を?
幼い日々を共に過ごしたレオンハルトからの愛の告白。
現実を確かめるように、幾度もまばたきを重ねた。
そっと、レオンハルトへ視線を寄せる。
コバルトブルーの瞳は、熱を孕んだようにこちらに情熱を注いでいた。
幼馴染みだからこそ伝わる、一片の曇りもない瞳。
レオンは、本気で言っているんだわ。
もしかして、今までもずっと本気で……?
大量の婚約申込書を送ったり、婚姻誓約書に署名をさせようとしたのも、冗談ではなく本気だったということなの⁉
――そう考えると、すべてが腑に落ちた。
あ、そっか。
そうだったのね。
……まったく気がつかなかった。
今までずっと、レオンは婚約を解消した私を励まそうとしていると思っていた。
まさか、本気だったなんて。
ただ、私にとって――
レオンは、子供の頃から一緒に育った弟みたいな存在で。
家族の次くらいに近しくて……。
そっと瞼を閉じる。
ガーネットは、湖面が揺蕩うように静かに思案を巡らせる。
私はきっと、レオンのことを異性として意識することはできない。
だって私にとってのレオンは、「ガーネ、ガーネ」と甘えてくる小さなレオンのままだもの。
ゆっくりと、顔を上げた。
レオンハルトを視界に捉えると、ガーネットは優しく微笑みかけた。
「ありがとうレオン。私もレオンのことが大好きよ」
『大好き』という響きに、レオンハルトのコバルトブルーの瞳が瞬いた。
だがしかし、ガーネットから告げられた次の言葉は、
「でもそれはね、大好きな家族に向けるような『好き』なの……レオンの気持ちは吃驚したけど、すごく嬉しい。でも、私は……」
ガーネットが言い終わる前に、レオンハルトの口元がゆるんだ。
微笑んでいるのにどこか淋しげで、消えてしまいそうな脆さがあった。
「……ふ、まあ、そう言われると思っていたけど。いつでも前言撤回してくれて構わないよ。僕の、ガーネを愛する気持ちは、永遠に変わらないから……」
ガーネットを見つめながら、手の甲にそっとくちづけを添える。
触れた唇には、未練とも執着ともつかない強い執念が宿っているようだった。
その様子を、数メートル離れたボートからコールは見守っていた。
相も変わらず、レオンハルト・シュナイダーは姫様に好意を抱いているようだ。
姫様はそちらには疎いらしい。
男からのそういった好意には気づかずに、いつも無意識に躱していた。
だが、今回はいつもと違う。
姫様の手を取り、積極的に手の甲にくちづけまで落としている。
まさか……求婚したんじゃないだろうな。
残念なことに、会話は吹き抜ける風の音で掻き消されて聞こえない。
不意に、ルビィの顔が浮かんだ。
そういえば、ルビィは姫様の未来の娘らしい。
1年後には生まれるのだとも。
まさかとは思うが、本当にレオンハルトが父親じゃ、ないだろうな。
それはすごく腹立たしいんだが。
…………ん、別に嫉妬とかじゃないぞ。
すると、ガーネットたちを乗せたボートがゆっくりと滑り出した。
どうやら桟橋へ戻るらしい。
桟橋が近づくにつれ、セイラの姿が浮かび上がる。
桟橋に立ち尽くしたセイラは、張りつめた空気を漂わせている。
ガーネットへ向けて、鬼気迫る様子で声を張り上げた。
「ガーネットお嬢様っ!」
嫌な予感が首すじを掠める。
ガーネットの表情も曇っていく。
「どうしたのセイラ、そんなに慌てて」
「ルビィお嬢様がっっ……」
セイラの告げた名に、ガーネットの表情が蒼白に染まった。
「え、ルビィがどうしたの!?」
心の乱れを映すように、セイラの肩はぎこちなく上下に揺れている。
動揺した瞳を揺らし、震えた声で言葉を吐き出した。
「お姿が見えないのです! アイスクリームを食べていらっしゃったのですが、いつの間にかいなくなられてっっ」
「何ですって!? ……は、早く探さないと。ルビィ、ルビィっっ!」
ボートからよろめくように降りながら、ガーネットはルビィの名を必死に呼んだ。
ガーネットの取り乱した声が、湖に波紋を広げるように響き渡るのだった――。




