第39話 芽生えた恋心と、育った執着
ふわりと霞みがかった微睡みの中……。
可憐なシロツメクサが咲き誇る広大な花畑を、年端もいかぬ少年が風を切るように駆けていく。
月の輝きのような、少年の月白色の髪がさらりとなびいた。
少年の向かう先には、小さな少女の姿があった。
まだ幼いガーネットである。
花畑の風に揺られながら、ガーネットはシロツメクサの花を一輪ずつ丁寧に結んでいる。
可愛らしい花冠が形を成していく。
「うわあーんっ、ガーネえぇぇっ。僕の頭に虫がぁ~あっ!」
少年はガーネットの胸めがけて、勢いよく飛び込んだ。
慣れた手つきで花冠を退避させ、ガーネットは胸元にしがみついた少年に微笑みかける。
「ふふっ、もうレオンったら。虫って、ただのてんとう虫じゃない」
ガーネットへ飛び込んだ瞬間、レオンハルトの心に巣食った恐怖はすでに溶かされていた。
だが、ガーネットに甘えたい気持ちが胸をくすぐる。
レオンハルトは怯えたふりを続けた。
「でもでもっ……てんとう虫って赤い目玉みたいで怖いんだもん」
どこか呆れを含みながら、ガーネットは口元を柔らかくゆるめる。
レオンハルトの月白色の髪に、そっと触れた。
絹のような髪にしがみついたてんとう虫は、やれやれとガーネットの指へと身を移す。
指の先までよじ登ったてんとう虫は、バサッと羽を広げた。
まばたきを落とした僅かな瞬間に、てんとう虫は空へと旅立っていく。
てんとう虫を見送りながら、ガーネットはレオンハルトの頭を優しく撫でた。
「はい、もう大丈夫。レオンったら、本当に泣き虫なんだから」
春の陽だまりのような柔らかな笑顔がほころぶ。
その花のような微笑みに照らされ、レオンハルトの頬はじんわりと火照りを帯びていく。
ガーネはとっても優しい。
僕は公爵になる。
だから心も強くありなさい――と、お父様やお母様はいつも口にする。
勉強や剣術を頑張っても、当然だって褒めてはくれない。
でも、ガーネだけは僕のことを「偉い」って褒めてくれる。
嫌な時は、甘えさせてくれる。
僕は、ガーネと一緒にいると心臓がどきどきうるさくって、嬉しくなるんだ。
最近読んだ本で、それを『恋』と呼ぶのだと知った。
物語の幸せな結末みたいに、僕はガーネと一緒にいたい。
だから……
「ねえガーネ。僕ね、ガーネが大好き。だから僕のお嫁さんになって……」
ガーネットの唇が柔らかく弧を描き、返事を紡ごうと動いた。
だがその時、
「ダメなのっ! ママさまはルビィのママさまだから、あなたのお嫁さんにはならないの!」
――瞬間。
現れたのは、ガーネットに瓜二つの少女と、成長した19歳のガーネットだった。
先ほどと変わらぬ穏やかな気配のまま、ガーネットは唇に弧を描く。
けれど、その眉は申し訳なさげに沈んでいて、
「……私はルビィのママさまみたい。だから、ごめんなさいレオン。あなたのお嫁さんにはなれないの」
ルビィがガーネットの手を取った。
そして、淡い光の先へと導いていく。
その光の中には、男のシルエットが薄くにじむように浮かんでいた。
その人物に向けたガーネットの眼差しは砂糖菓子のように甘く、柔らかく注がれている。
ああ、知ってる。
それは僕がガーネに送っている眼差しと同じ。
……恋、している視線。
柔らかな微笑みが2人の間で交わされる。
ガーネットは、その人物の手を躊躇いながらも受け入れた。
「ガーネっ、いやだっっ。ぼくを、僕を置いていかないで!」
刹那――
静寂の深淵から、コバルトブルーの瞳が浮かび上がった。
見知った天井に安堵を漏らす。
「……ゆめ、か」
途端に莫迦莫迦しさが胸を込み上げ、レオンハルトの喉が笑みを鳴らす。
「はは、ようやくカイザーを引き剥がしたと思ったら、あの子供に打って変わるとはな。夢の中まで……どれだけ僕の邪魔をすれば気が済むんだ」
悪態を吐くその尖った声とは裏腹に、額には冷たい汗が滑り落ちていく。
手の甲で何度拭っても、説明のつかない不安は拭いきれず、こびりついたまま……。
「このままだと、本当にあれが未来になってしまう。だが、絶対にそんなことはさせない」
寝台から、静かに身を起こした。
素足のまま向かったのは、壁に据え付けられた大きな姿見鏡だった。
豪華な金の縁であつらえた装飾が美しい。
鏡の前で立ち止まり、レオンハルトは己を見つめた。
決意を固めた眼差しの自分が、こちらを睨んでいる。
今日、僕は決行する。
ガーネを僕のものとするために……!
∻❖∻
カラカラとした車輪の音が響く。
馬車の周囲には馬に跨った軽装の護衛が2人。
レオンハルトから招待を受け、湖周辺でピクニックとなった。
別荘の立ち並ぶ区域を進み、一等地へ。
白亜の輝きを纏った白煉瓦の屋敷の前で、馬車は羽根を休めるように停車した。
レオンハルトらしき人物が、急ぎ足で馬車へと駆け寄った。
馬車の扉がゆるやかに開かれる。
そのゆるやかさが、もどかしかったのか。
ドアノブへと手を伸ばし、レオンハルトは一気に開け放った。
「ガーネ、おかえりっ」
その溌溂とした声に、ガーネットは思わず笑みをこぼした。
「ふふ、おかえりだなんて。ここは私の家ではないけど……」
包み込むようにガーネットの手を取り、レオンハルトは穏やかな声音で告げた。
「子供の頃はよく遊びに来ていたでしょ。だからおかえりだよ」
「そうね、子供の頃はよくレオンとこの辺りを駆け回っ……いいえ、レオンの部屋のほうが多かったかしら……」
遠い記憶を思い出そうと、ガーネットは首を傾げる。
すると、ガーネットの背後から、小さなルビィがぴょこりと顔を出した。
「ママさま。ここに来たことがあるの?」
「ええ、この辺りは子供の遊び場がたくさんあるのよ。湖で水遊びしたり……そうだ、あの花畑はまだあるかしら。あとで一緒に花冠を作りましょうね、ルビィ」
ルビィの淡い青碧の瞳が、湖面のようにきらりと瞬いた。
「うんっ、花かんむりならルビィもお母さまと作ったことあるの。ママさまの花かんむりをルビィが作ってあげる!」
並んだ2人は、揃いの水色のセーラーワンピースに身を包んでいた。
――首元には、橙色の薔薇のコサージュ。
数日前に湖上街リングロータスで揃えたセーラーワンピースは、涼やかな湖によく映える。
楽しげな2人を見つめたまま、レオンハルトはコバルトブルーの瞳を細めた。
瞳の奥は、狂気を隠したような暗闇が不気味に揺らめいている。
「……さあ、立ち話もなんだし、こちらへどうぞ」
ガーネットの手を包むレオンハルトの手のひらに、僅かに力が宿った。
きゅっと握ったその指先は、茨の蔦のように纏わりつく。
絶対にガーネットを離すまいとする執着が、静かに根を張り始めていた……




