第31話 腹黒幼馴染みは、令嬢を離さない
ベルフィオーレの雄大な山々に吸い寄せられるように、ゆるやかに陽が沈んでいく。
空が夕闇を帯びはじめ、世界が黄昏に包まれた頃――
ガーネットたちを乗せた馬車の車輪の音が、ようやくベルフィオーレ城の石畳を叩いた。
ルビィと並んで、ガーネットは石畳へと降り立った。
すると、ガーネットの瞳が静寂のエントランスに佇む1台の馬車を捉えた。
馬車の扉には見覚えのある『鷲』の紋。
ガーネットの意識に、ある人物の面影がふわりと浮かび上がる。
背後のエメルダも気づいたのか、嫌気を含んだ声を漏らした。
「あらまあ、お客様みたいね……そういえばジャスパーの手紙に、ある人物から婚約申込書が大量に届いて困り果てていると書いてあったわ。ガーネが婚約解消した今が絶好の機会だものねぇ……」
その声音には、不愉快が滲んだような棘が混じっていた。
心地の悪さを感じつつもガーネットは言葉を返すことなく、静かにエントランスへと歩みを進める。
靴音を静かに響かせながら、玄関ホールの手前へと辿り着く。
すると、
――ギキィィィ。
重々しい音を響かせ、大扉が厳かに開いた。
玄関ホールから姿を現したのは、シャンデリアの輝きを背に抱え、屋敷の主人のように両手を広げたレオンハルトだった。
ガーネットを認めたレオンハルトのコバルトブルーの瞳に、きらりと星屑が瞬く。瞬間、レオンハルトはガーネットの細腰を引き寄せ、自らの胸元へと抱き寄せた。
「ガーネっ、おかえり!」
されるがまま、抱き寄せられたガーネットは反射的に身を引いた。だがそれを許すまじと、レオンハルトの腕はさらに締まり、逃がすまいと抱き締める。
「れ、レオン……来ていたの、ね」
長い指先でガーネットの背中を優しく撫でながら、レオンハルトはむくれたように声を落とした。
「もうっ。昨日、遊びに行くって伝えただろう。午後の1刻からずっと待っていたんだよ」
「まあ、そんなに早くから……私たちが遺跡に辿り着いたのが1刻だったから、きっと入れ違いになってしまったのね」
そう言葉を零しつつも、ガーネットは抗うように胸元を押し返し、抱擁から逃れようとしている。しかしガーネットのか細い力では、レオンハルトの手を解くことはままならない。
その押し問答を、エメルダは取りこぼすことなくじっとりと視線に留めていた。娘に加勢するように咳払いを響かせ、場の空気に冷やりとしたスパイスを加える。
「……コホン。幼馴染みとはいえ、ちょっと密着しすぎかしら」
冷ややかなエメルダに今気づいたとばかりに、レオンハルトは声を張り上げる。
「これはこれはっエメルダ様。お久しぶりです」
レオンハルトの抱擁が緩んだ隙に、ガーネットは腕の中から抜け出した。
ルビィはというと、ママさまを奪った突然の抱擁に驚愕し、エメルダの背後に隠れていた。そんなルビィの頭を優しく撫でながら、エメルダは侯爵夫人たる優雅な武装を口元に刻む。
「お久しぶりね、レオンハルト様」
エメルダの挨拶を合図とするように、レオンハルトは静かに右手を掲げる。
すると侍従が流れるような所作で、丁寧に包装された長方形の箱をその右手へ持たせた。
「エメルダ様、こちらはコーヨウ国の羊羹です。エメルダ様の好物と耳にしたものですから取り寄せました」
「まあ、わざわざありがとう。羊羹は研究をしながらでも気軽に糖分を摂取できるのよね。小豆以外に蜂蜜、まあ抹茶まで……」
箱の隙間からちらりと覗いたエメルダは、満足げに頬を緩ませた。
だがすぐに顔を上げ、値踏みするように視線を向ける。
「そういえば、例の新聞を読みましたよ。ガーネットのために、用意周到に策を弄しているようね」
瞬間、レオンハルトの瞳が微かに冷たく揺れた。
それも束の間、前髪を柔らかく掻き上げ、宝石のようなコバルトブルーの瞳は三日月を描いた。
「策を弄するなど……滅相もありません。僕は真実しか伝えておりませんので」
「……真実? ガーネとあなたが婚約秒読みという記事も真実なのかしら。母の私は何も聞き及んでいないけれど」
鋭い刃を懐に隠し持ったエメルダの瞳が、レオンハルトを鋭く穿つ。
エメルダとしては、ガーネットの意志を軽んじ、婚姻を既成事実として書き立てた記事にどうにも腹の底が収まらなかった。
その燻る憤怒に勘付いたのか。それ以上は語るまいと、レオンハルトは感情の読めない微笑みを保っている。
ガーネットの母の不興を買えば、これまでの画策が水の泡となり得るからだ。
不穏な空気に包まれ、エントランスは一瞬で凍りついた。
母と幼馴染みの顔を交互に見比べ、ガーネットは人知れず、浅い溜め息を零す。
この2人は、昔からあまり仲がよろしくない。
私の婚約式の日に、レオンが事件を起こした頃からかしら。
『あの子には気を付けなさい』と、お母様は口を酸っぱくして注意の言葉を重ねるようになった。
あれから14年過ぎた今でも、お母様はレオンの警戒を解くことはない。
といっても、このまま沈黙を続けるわけにもいかないし……。
静寂の泉に小石を落とすように、ガーネットは控えめに声を掛けた。
「と、ところで……レオンは何の用で来たの?」
瞬きほどの早さでガーネットへと踵を返し、レオンハルトは目映い笑みを浮かべた。そして、どこか照れくさそうに頬を掻く。
「実はガーネを誘いにきたんだ。あのさ、ガーネ……」
流れるような仕草でガーネットの手を取り、手の甲に唇を寄せる。その柔らかな唇から、蜂蜜のように甘美な声がほどけた。
「……僕と、デートしてくれないか?」
突然の誘いに理解が追いつかず、ガーネットは青碧の瞳をぼんやりと瞬かせた。
だがそれ以上に、見守っていた一同の瞳に驚きが走った。
コールに至っては眉間に皴を寄せ、動揺したように瞼をぴくぴくと震わせている。
「デートってなぁに? おいしいの?」と首を傾げるルビィの声だけを残し、忙しない1日は静かに幕を閉じた……。




