第30話 繋いだ指先、それぞれの想い
「きゃっ!」
ぬかるんだ地面に足を取られ、ガーネットの体勢が崩れた。
すると、背後から大きな腕が伸び、ガーネットの腰を優しく抱え込む。
「姫様っ、大丈夫か?
コールの気遣う体温とともに、ガーネットは安堵の息を漏らした。
「ええ、なんとか。ありがとうコール」
口元は穏やかに弧を描き、コールもまた安堵の笑みを浮かべる。
だがすぐに森の気配を読むように視線を巡らせ、静かに言葉を届けた。
「ここは土がぬかるんでいて足場が悪い。だからその……」
躊躇うような余白の後、静々と手が差し伸べられる。
「手を繋いでもいいか?」
一拍の遅れもなく、ガーネットはコールの大きな掌にそっと指先を添え、柔らかな微笑みを灯した。
「……もちろん。ありがとう」
掌越しに感じる淡い温もりと互いの鼓動が、脈打つように伝わってくる。そのくすぐったさに、胸の奥の柔らかな部分がふるふると震えた。
コールの手、とっても温かくって、大きくて……。
骨ばった掌にすっぽりと私の手が包み込まれている。
その温もりごと、胸の奥がじんわりと熱くなって安らぐ。それだけじゃなくて、心臓が暴れるみたいに煩くてちょっぴり落ち着かない。
でもどうしてなのだろう。不思議と懐かしさを感じてしまう。
不意に――5歳の頃、レオと2人で森を冒険した胸の高鳴りが重なった。
……ん、どうしてレオのことを思い出すの?
その時だった。
コールの指にきゅっと力が入り、ガーネットの指先を握りしめた。
「なあ、姫様」
琥珀の瞳は柔らかく弧を描き、ガーネットへ向けた表情に隠しきれぬ高揚感があふれた。
「なんかさ、楽しいな」
「私もそう思っていたの!」
ガーネットは綻ぶような笑みを口元に咲かせた。
鏡のように重なった微笑みが、2人の感情の共鳴を人知れず語っていた。
ルビィの背を捉えたまま、ガーネットとコールは暗いオークの森を突き進む。
突如目映い光が差し込み、眼前に広がったのは――
「あったぁ、ルビィのおうち!」
弾むようなルビィの声が届くとともに、2人は顔を上げた。
目の前には、淡い陽光を受けて輝くこぢんまりとした木造の小屋が静かに佇んでいた。
こんな人気のない大森林の中に、小屋が建っているだなんて知らなかった。
ん、『ルビィのお家』って言わなかったかしら?
もしかしてここが、私とルビィが身を隠していた家、ということ……?
「ただいまー」
ルビィの明朗な声が響く。
扉が軋む音と同時に、ルビィは小屋の中へと入っていった。
だがもちろん、中で迎える母はいない。ガーネットはすぐに呼びかけるが。
「あ、待ってルビィ。まだあなたの住む前のっ……」
しかし、すでにルビィの姿は小屋の中へ消えたあと。
ガーネットも後を追うように、扉へと身を滑り込ませた。
長く閉ざされた独特の匂いが鼻先をかすめ、陽光の筋に浮かぶ埃がゆらゆらと舞っている。
まず視界に飛び込んだのは、タイル調の台所とテーブル。
テーブルには、古びた文献が埃を纏ったまま積み上げられている。人が住んだ形跡は、遠い昔のように途絶えていた。
入口近くにルビィの姿は認められない。
周囲を見回したガーネットは、さらに奥へと進んだ。といっても部屋数は僅かで、開け放たれた扉がすぐに目に留まる。
中に入ると、ルビィが静かに佇んでいた。
どこか寂しげな小さな背が、何もない部屋の隅に静かに視線を留めている。
ガーネットの気配に気づいたルビィは、沈んだ声を震わせる。
「ここにね、ルビィとお母様のベッドがあったのに、ないみたい……ベッドの下にお菓子を隠してあったの。ママさまと食べたかったのに」
力なく振り向いたルビィの瞳は、湖面のさざめきのように揺れていて。
ルビィの淋しさを包んで拭き取るように、ガーネットはそっと胸元へ抱き寄せた。
「今はまだ、ここにお引越ししてくる前の時間だからなかったのね。ルビィのお菓子には負けるだろうけど、ママさまのとっておきのお菓子をあとで一緒に食べましょう。ルビィのお家を教えてくれてありがとう」
「…………ぐすっ……う、ん……」
ガーネットの胸に顔を埋め、ルビィは涙を濡らした。
心のどこかで、家に帰ればお母様が迎えてくれると思っていたのかもしれない。
その希望の灯火も消え果て、ルビィの淡い青碧の瞳からは哀しみが止まらなかった。
静寂の室内に、小さなルビィの嗚咽がこだました――。
泣き尽くした甲斐もあってか、ルビィの口元は綻び、表情は晴れ渡っていた。
「少しお散歩してくるの」と微笑み、ルビィはガーネットの温もりから離れる。
すると、駆けていくルビィと入れ替わるように、コールが部屋へと入ってきた。
「姫様、ここはどういった場所なんだ?」
そっと立ち上がったガーネットは、スカートの埃を優しく払いながら答えた。
「ここは、未来で私とルビィが身を隠していた家よ」
「……身を、隠していた?」
疑念の色を含んだコールの声に、ガーネットは静かに頷いた。
そして躊躇いを胸に抱えたまま、知り得る未来をそっと語り出す。
「何者かが私とルビィを追っていて、私たちはここに身を隠していたらしいの」
「父親は? 父親はどうしたんだ?」
食い下がるようなコールの声が、空気を切り裂く。
逃げ場のない問いにガーネットは俯き、声になりかけてはすぐに喉奥へと呑み込んでしまう。喉奥が熱を帯びたようにズクズクとつかえ、その言葉を放つのを拒絶する。
この言葉をコールに告げることを、私の中の何かが拒んで仕方がない。
でも…………っ。
ふぅと息を整え、その瞳に決意を固める。
言葉を選ぶようにゆっくりと、途切れ途切れになりつつも確かな言葉で紡いだ。
「ルビィの父親は……私とお腹のルビィを庇って、亡くなって……すぅ……しまったのですって……」
「は? んだよそれっ! 傍にいてやれよ」
その声音には、憤怒と紙一重の苛立ちが滲んでいた。
何か知らんが無性に腹が立つ。
どうして姫様を残して死ぬとかできるんだ?
本当に好きなら、悪魔に魂売ってでも生きてみせろよ…………俺ならっ。
奥歯が悲鳴を上げるほど軋み、握った拳には爪が白く突き立つ。
まだ見ぬガーネットの想い人への怒りが、胸の奥でうねるように渦を巻く。
その感情の正体に、コールはとうの昔に辿り着いていた。
俺なら、とか……それこそ何言ってるんだ。
俺は姫様の護衛で。そのうえ、敵対するガルシアなんだぞ。
ただの夢物語だと、コールはその感情に蓋をするように瞼を閉じる……。
すると、背後から軽快な靴音が響いた。
振り返ると、遠い日を思い起こすように室内を見渡すエメルダが佇んでいた。
手には、先ほどのテーブルに積まれた文献を携えている。
「懐かしいわね。ここは、以前クレメンツ先生が使っていらっしゃった山小屋ね」
「クレメンツ……?」
ガーネットを婚約破棄に追い込んだ、ミスティナ・クレメンツの顔が浮かぶ。
同じクレメンツの家名。親戚の方かしら?
そっと文献のタイトルをなぞったエメルダは、ガーネットの思考を悟ったように静かに言葉を零した。
「クレメンツ先生は私の考古学の師よ。先生は亡くなったの。土砂崩れに巻き込まれて……今のクレメンツ伯爵は先生の奥様の再婚相手。ガーネが思い浮かべたその娘は、奥様が孤児院から引き取ったんじゃなかったかしら」
ミスティナ様が孤児だなんて、初耳だわ。
そういえば、あの日の夜会は婚約破棄するための段取りが揃って、いいえ、揃いすぎていた。
あれをミスティナ様が自分の意志で、独断で準備できたのだろうか……?
……裏に、誰かがいるのかしら。
ふと、思い出したようにガーネットは告げた。
「お母様、私とルビィはここに隠れ住んでいたみたい」
パチッ。小さく指を鳴らし、エメルダは考えをまとめていく。
「……なるほど。確かにこの場所なら、そう簡単に知られることはない。追っ手の目を掻いくぐれるわね。亡くなったクレメンツ先生も、あなたたちが家を使ってくれて喜んだことでしょう……」
砂埃で汚れた窓から紅霞に染まる夕陽が差し込み、室内の色を柔らかく朱に染めていく。その物悲しい雰囲気に胸を震わせるように、エメルダは静かに提案した。
「あら、もうこんな時間……皆、疲れたでしょう。そろそろ帰りましょうか」
地平線へと夕陽が沈んでいく。
暮れゆく空に手を引かれるように、馬車はベルフィオーレ城へと向かった。
お読みいただきありがとうございます。
次の物語は――
ベルフィオーレ城へと戻ると、どこか見覚えのある馬車が停まっていて。
顔を見せたのは、腹黒さを甘い微笑みで隠したレオンハルトだった。
レオンハルトには何やら企みがあるようで――!?
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