第25話 ルビィと秘密の扉
バルコニーへと通じる硝子扉から、午後の煌めく陽光が室内を明るく満たしていく。ふわりと揺れるレースのカーテンの隙間から光が差し込み、旅行鞄を片付けるセイラの顔を撫でていった。
眩しそうに目を細めながらも、セイラは穏やかな声を落とす。
「ガーネットお嬢様。荷ほどきはすべて解き終えました」
ガーネットはというと、ぼんやりと橙色の薔薇のコサージュを見つめていた。が、すぐさまハッと顔を上げ、感謝の微笑みを咲かせた。
「ありがとうセイラ。あなたも今日は休んで。久しぶりに実家に帰ってきたし、家族に顔を見せたいでしょう」
頬に添えた指先の下で、セイラは嬉しさをこぼす。
「まあ、お心遣いありがとうございます。それでは、少しばかり暇を頂いて、両親に顔を見せてきます。あ、でも、何かあったらすぐにお呼びくださいね」
「ええ、ありがとう」
セイラを笑顔で送り出し、その余韻のまま周囲へ視線を巡らせた。見慣れぬ間取りや家具の配置に、ガーネットは静かに眉を寄せる。
私の部屋は改修工事中で使えないなんてね。
実家なのに、自分の部屋じゃないのは不思議な感じがするわ。
すると、部屋の中をちょこちょこと動き回る小さな珊瑚色の人影が目に入った。
硝子扉からバルコニーを覗いていたかと思えば、クローゼットを恐る恐る開け、お化けがいないか確認する。にもかかわらず、寝台の下へは恐れることなく匍匐前進していく。
うふふ。ルビィったら、とっても楽しそう。
ルビィは部屋の中を冒険しているらしい。
私も小さな頃は、城の中を日が暮れるまで冒険したわ。遠出して遺跡の森林まで冒険したこともあった……あら、意外と私もお転婆だったのかも。
確か、そこで初めてレオと出会ったのよね。この領のどこかに、もしかしたらレオがいるのかもしれない。会えるかしら……私の、初恋の人。
すると、軽やかなルビィの声が弾けるように響いた。跳ねるような声音には、小さな好奇心が宿っている。
「ママさま。このドアなあに?」
ルビィが示したのは、何の変哲もない内扉だった。
内鍵が付いたごく普通の扉。だが、その扉にはどこか不自然さが漂っている。
「何の扉かしら。浴室はあっちだし、ウォークインクローゼット? でもこちら側に内鍵は必要ないはずだけど」
内鍵を回し、ドアノブを握る。カチャ。それはいとも容易く、するりと開いた。
何かの予感を感じたのか、ガーネットは慎重に、ゆっくりと扉を押し開ける。
キィィィィー。
軋む音とともに、ガーネットの瞳いっぱいに飛び込んだのは――引き締まった胸筋。だが、突然現れたそれに理解が追いつかず、ガーネットは視線を落とした。
――ん、何?
ガーネットの瞳に小さな波紋が走る。青碧の瞳に映り込んでいたのは、6つに割れた鍛え上げられた腹筋だった。まるで彫刻のようなくっきりとした窪みは、息を呑むほどである。
するとどうしたことか、割れた腹筋は掠れた声を発した。
「んぁ……ひめ……さ、まあぁぁっ!?」
聞き覚えのある声に導かれるように、ガーネットは顔を上げた。
こちらを見つめていたのは、
「こ、こここここっコール!? えっ、なん……ではだ、か……ぁ」
視界に広がったのは、引き締まったコールの上半身。
目の離せない引き締まった腹直筋と、コールの驚いた表情を目を走らせるように超高速で往復させる。
コール……すごい筋肉、じゃなかった。
男の人の裸なんて、こんなに近くで見たの初めてだからかしら。コールの鍛えられた筋肉を見ると胸の高鳴りが止まらない……わ、私には刺激が強すぎるっっ! ……あ、あれぇ? 何だか頭がくらくらする、かも。
「ふぁっ……」
一瞬意識が遠のき、ガーネットはよろめいた。瞬間、コールの力強い腕が迷いなく差し出され、ガーネットを優しく支える。
「あ、おい。大丈夫か姫様」
「ありがと……ひゃぁ!?」
息がかかるほどの鼻先には、コールの逞しい胸筋が広がっている。そのうえ、コールの剛健で温かな素肌に自分が包み込まれていることに気づいた。
途端にコールの温もりが、シトラスの香りが、ガーネットの触覚と嗅覚を奪い、くすぐられたように鼓動が搔き乱されていく。
トクトクトク……。
心臓の音が、先ほどの比ではない早さで胸を叩く。
音が邪魔をして、何も聞こえない。思考が散り散りになる。
ああ、待って。また頭がくらくらぁ……す……ぅ。
「おっ、おい姫様! 大丈夫か?」
「ママさまっ」
2人の慌てふためく声が飛び交う中、ガーネットは「腹筋と胸筋が……迫ってくるのぉ」とうわ言のように繰り返し、静かに意識を失った。
∻❖∻
「ママさま、ママさまぁ……ねえ、コール。ママさま大丈夫なの?」
深い海の底で音を聞くように、少女のくぐもった声が耳に触れた。それが可愛いルビィの声だと、ガーネットは即座に感じ取った。
ああ、ルビィの心配そうな声が聞こえる。
私は大丈夫よ、ルビィ。今すぐルビィを抱きしめて、安心させてあげたい。
さあ、ガーネット起きて。大切なあの子が待っているから。
「心配するなルビィ。姫様は少し驚いて気を失っただけだから、もうちょっとすれば目を覚ますはずだ」
コールの声? そういえば、コールに最後に会ったような……えっと、何かとても芸術的なものを見た気がするのだけど……何だったかしら…………あ、腹筋‼
パチッと瞳を開き、ガーネットは急き立てられるように寝台から跳ね起きた。
ひと言目に発したのはまさかの……
「どうして上半身裸なのっっ。というか、どうして隣の部屋にコールが!?」
だが、コールはすでに白いシャツに身を包んでいた。いつもの明朗さは影を潜め、気恥ずかしげに頬をぽりぽりと掻きながら言葉を連ねていく。
「どうしてって、あっちは俺の部屋って通されたからな。護衛の部屋にしてはいい部屋だと思いながら服を着替えていたら、突然内扉が開いて……姫様が覗いてて、俺も驚いた」
「……そ、そうだったの」
あれ? それだと着替えを覗いてしまった私のほうが、悪いのでは?
コールのシャツ越しに筋肉がちらつくが、煩悩を打ち消すようにガーネットは首を振る。火照りを覚えた頬を指先で冷やしながら、肩を竦めるように声を落とした。
「ご、ごめんなさい。着替えを覗くつもりなんてなかったの。本当よ」
あの時の状況を思い出し、僅かにはにかみながらもコールは柔らかく言葉を零す。
「ああ、俺も部屋が繋がってるとは思わなかったし、欠片も疑ってないよ。そ、それよりもさ、俺と姫様の部屋って……」
躊躇いがちにひと呼吸おき、微かに上擦った声が空気を撫でる。
「対に、なってるよな。よくある、夫婦部屋みたいに」
「ふ、夫婦部屋……っ!?」
途端に、ガーネットの身体中を熱が爆ぜるように駆け巡った。温度は冷めることなく、沸々と熱を増していく。火照った身体を両腕で抱き寄せ、ざわめく感情を鎮める。と同時に、ある疑問が浮かび上がった。
どうしてお母様は、この対の部屋を私とコールにあてがったの?
こんなっ、内扉ひとつで行き来できる部屋なんて……そんなのまるでっ。
胸の奥に、行き場のない困惑が湧き上がっていく。
気づいた時には、足取りも覚束ないまま、ガーネットはふらふらと廊下へ飛び出していた――。




