第23話 護衛騎士の心、傷モノ令嬢は知らず
ルビィと衝突し、怒りを露わにしたレオンハルトだったが、その後の道中もガーネットたちの馬車に連れ添う形で勝手に旅に同行した。
ある時は――
「ガーネ、この宿屋では宿泊者全員の記帳がいるらしいよ。ガーネもこの帳面に記帳して」
柔らかく微笑んだレオンハルトは、ガーネットの手に羽ペンを預け、記帳をどうぞと優雅に促した。微笑みの裏に、早くと急かすような圧を感じるのは気のせいか。
宿帳の上部は白い紙に覆われ、下の記帳欄だけが顔を覗かせている。妙な違和を覚えながらも、ガーネットはペンを宿帳に走らせた。
だが、
あれ、数日前にもこんなことがあったような……
妙な既視感が胸に落ちた瞬間――羽ペンを取り上げる者がいた。コールだ。
「姫様、その用紙に署名しちゃダメですよー。シュナイダー卿と結婚することになりますから」
「……え!?」
即座に伏せられた白紙の部分を捲った。白紙の下に潜んでいたのは、数日前、王城で相対した『婚姻誓約書』の文字……。
「ま、またなのレオンっっ!?」
ガーネットの喉が跳ねたと同時に、チィと乾いた舌打ちが反響した。
その陰鬱な響きを、コールは聞き逃さなかった。
「あ、今舌打ちした」
小さな綻びを突くように、コールは声をそっと空気に残した。
すぐさまレオンハルトのこめかみには薄っすらと青筋が浮き上がり、苛立ちの溶けた溜め息とともに、低く毒づく。
「ガルシア家から追放されたくせに煩いなあ」
悪態はそれでは留まらず、
「ただの護衛のくせに、なに? ガーネの騎士様にでもなったつもりなの?」
梅雨の終盤を思わせるじっとりと湿った気配が、レオンハルトの周囲に幾重にも層を覆い重ねていく。
身の毛さえよだち始めた頃。琥珀の瞳をレオンハルトへ滑らせ、口元に手を添えたコールはガーネットにこそりと囁いた。
「姫様、あれがシュナイダー卿の本性だ。騙されないように」
「本性って……うーん」
本性だとまでは思わないけど、レオンの様子は明らかにおかしい。これまでにない苛立ちが、静電気のようにビリビリと周囲を威嚇している。
幼馴染みとして、何か声を掛けるべきかしら。
思案に思案を重ね……
やがて、ガーネットにしては語気を強めた威厳ある声を放った。
「レオン、あなたの態度はよくないわ。コールは私の護衛なのだから、私を様々な危険から護るのは当然でしょう」
すると、ごねた幼子のようにレオンハルトは肩をすくめた。
「……えー、僕は危険じゃないよ。僕が虫も殺せないほど無害なのは、ガーネが一番知ってるだろ、ね?」
髪に虫が留まり、「ガーネ取ってーっっ」と泣きじゃくった幼いレオンの姿が、記憶の海から浮上する。その愛らしい追憶も相まって、絆されたガーネットは「うぅーん」と喉を鳴らすしかなかった。
その後もレオンハルトは手を替え品を替え、ガーネットに署名という名の婚姻の誓約を迫った。
その都度コールが間に入って企みを封じ、気づけば王都を経って6日目。
本日の宿屋にて。
ガーネットの安眠を護るため、見張りとして1人廊下に佇むコールだったが、疲労に引きずられるように左目尻の黒子に影が落ちた。
「何なんだ、お上品な公爵家とは思えないへこたれなさだろ。研いでも研いでも現れる剣先の錆みたいだ」
カチャ。背中の扉が僅かに開いた。
隙間から顔を覗かせたガーネットが、ルビィの寝息を乱さぬようにそっと廊下に身を滑らせる。柔らかな絹地の寝着がふわりと揺れ、コールの視線は虚空をなぞるように寝着を追った。
視線に気づかぬガーネットはひそやかな声を落とす。
「そんなに心配しなくても、レオンのちょっとした悪戯よ。昔からレオンは私に構いたがりだったから、遊んでいるだけ。ルビィもそんな感じでしょ」
そのひと言に、コールの片眉が歪んだ。
「……子供みたいに思ってるようだが、アイツは成人した男なんだぞ。ルビィとは違う」
瞬間、ガーネットの纏う温度が冷たさを帯びる。冗談を聞いたようにくすりと笑みをこぼし、落ち着いた声が廊下に沈んだ。
「レオンは私を女性だなんて意識してないわ。それに」
感情の掴めぬ視線は緩やかに床を縫い、
「私みたいな傷モノを女性として見る人なんて、誰も……」
刹那――ドンッ。
ガーネットの前髪をかすめ、コールの逞しい腕が壁を塞ぐように伸びた。眼前に広がるは、縋るようにこちらを覗き込む琥珀の瞳。
「本当に、いないと思ってる……?」
「……コー、ル?」
吸い込まれそうな琥珀の瞳に囚われ、ガーネットは痺れたように身動きが取れない。
どうしてコールの瞳から目が離せないの?
少し顔を逸らすだけでいいのに、まばたきさえ躊躇ってしまう。私……何か、おかしい。
それに、さっきの言葉。
それじゃあコールは、私を女性として見ているみたい……。
愛おしむように、コールは珊瑚色の髪束に指を滑らせる。だがすぐに眉間に深い皴を刻み、憎々しげに呟いた。
「あいつはたぶん、姫様をモノにしようと狼みたいに狙ってる。それこそ、姫様みたいな幼気な羊は簡単に食われるぞ」
「食われるって……もう、私の幼馴染みなのよっ」
流石のガーネットも幼馴染みを狼呼ばわりされ、ムッと口を尖らせる。しかし、上目遣いの視線が、コールにどんな感情を抱かせるのか、ガーネットは知る由もなかった。
そんな可愛い顔して……はあ、まったく信じてない顔だ。姫様は本当に昔から。
そっと視線を滑らせた先――コールの視界の端で、見張りの交代を告げるようにゲオルグが小さく佇んでいた。
「あ、交代の時間だ。まあとにかく、気を付けろよ姫様。おやすみ」
振り返ることなく、手を振るコールの背を見送りながら、ガーネットは呟いた。
「変なコール……」
コールが気づく数分前より、ゲオルグは廊下の角に隠れ、2人の会話に聞き耳を立てていた。別に、盗み聞きするつもりなどなかった。だが、どうにも2人の関係に歯痒さを感じていたのである。
そして廊下でのすれ違いざま、ゲオルグは固く閉ざしていた口をようやく解いた。
「コール。お前は、ガーネット様に求婚しなくていいのか?」
沈黙を好むゲオルグからの予想外の言葉に、コールの歩みが凍りつく。
「……なんで、俺が?」
口元を緩ませ、ゲオルグは数日前のことを思い起こす。
「頭を撫でられてあんなに悦んでいたじゃないか。尻尾まで見えた気がしたぞ」
「あれは……ちょっと欲に負けて」
コールの硬かった表情が気恥ずかしげに朱に染まる。
弟のように大切に思うコールの色づく姿に、ふわりと唇を綻ばせたゲオルグは、ベルフィオーレの使用人たちをも魅了したという端正な微笑みを灯した。
「お前が護衛になった理由を知れば、ガーネット様との距離はすぐに縮まると思うが。それこそ求婚だって受け入れるやも」
ゲオルグの希望を打ち消すように、コールの冷然とした声が抗う。
「いや、ガルシアの俺が求婚したって答えはノーだろ。姫様を困らせるだけだ。それに俺にはそんな資格なんて、ない…………じゃ、もう俺休むから」
「あ、おい」
ゲオルグの制止も振り切り、コールは再び廊下に靴音を響かせた。
濃紺の前髪が柔らかく揺れる下で、琥珀の瞳の奥は、闇夜のように昏く染まっていた。強く唇を噛み、喉奥から微かな声を絞り出す。
「姫様は、忘れていたほうがいいんだよ……」
掠れた声は夜の静寂に溶けていった。
【登場人物メモⅦ】
ゲオルグ・アダメス
30歳。コールに『先輩』と呼ばれるベルフィオーレ家の護衛騎士。
10年もの間、ガーネットの護衛を務めている。コールの置かれた複雑な境遇を理解しており、コールに肩入れしている節がある。寡黙だが……。
次の物語は――
ようやくベルフィオーレ領へと足を踏み入れたガーネットたち。
すると、馬車の背後から1頭の馬の影が迫り――その馬に跨る人物と、ガーネットは久方ぶりの再会を果たします。ですが、何やら思惑があるようで……。




