第22話 彼女の不安を護る花
――カランカランっ。
ドアベルの音の名残も掻き消え、冷たい静寂が室内に満ちた。
ショーウインドウの向こう側。レオンハルトの怒りの背が遠のくまで、ガーネットは静かに見送っていた。
レオンったらどうしたのかしら?
ここ最近、どうも苛立っているみたいだけど。
腕白な弟に手を焼く姉のような疲弊した表情で、ふぅと深い溜め息を落とす。
不意に、鏡の奥の自分と視線がぶつかり合った。
斜めの角度から覗いた左首元に、例の『傷痕』が薄っすらと浮かんでいた。息をするのも忘れ、ガーネットは咄嗟に傷痕を右手で覆い隠した。指先が微かに震える。
私ったら、何を勘違いしていたのかしら。
私みたいな傷モノがこんな可愛い服を着たって……ただ、痛々しいだけなのに。
途端に、ガーネットの心を淀んだ黒い霧が覆い尽くす。襟元のセーラーカラーを握る指先に、苦い力をじわりと込めた。そっと顔を上げたガーネットの瞳には昏い影が差し、力のない微笑みをその唇に浮かべる。
「……やっぱり、私には可愛すぎるかも」
「え、どうして? ママさまとっても似合ってるの」
迷子の仔猫が親猫を探すような、ルビィの儚げな声が空気を震わせた。
哀しみに染まるルビィの瞳を捉えても、ガーネットはただ弱弱しく目尻を下げるだけ。重い足取りで、試着室へと踏み込もうとしたその刹那――
「姫様っ!」
切迫したコールの声が、沈んだ空気を破った。
同時に、ガーネットの肩に柔らかな温もりが落ちる。その温もりに優しく引き寄せられ、仰いだ先にはコールの案じた眼差しが広がっていた。
「……姫様、動くなよ」
壊れ物に触れるように慎重に、セーラーカラーに手を添える。
コールの右手には、橙色の薔薇のコサージュが握られていた。それは、パールやレースをあしらった華美なデザインの薔薇のコサージュ。
コサージュのブローチピンを外し、武骨なコールの指先がセーラーカラーに留めようと奮闘する。だが、緊張のせいか動きが覚束ない。
不器用ながらも必死に取り組む姿は初々しくもたどたどしく、一同は固唾を呑んでその瞬間を待った。
そんなコールの姿を食い入るように見つめ、ガーネットは琥珀色の瞳に魅入られたように捉えて離さない。
コールの琥珀の瞳には、呆けたガーネットが揺れていた。
パチっ。ようやくブローチピンが留まった。
まるでひと仕事やり遂げたように、コールの口元も綻ぶ。
「よし、できた! これで気にならないだろ…………ん、姫様どうした?」
「……ふぇ?」
まだ夢の中にいるような、ぼんやりと霞がかったガーネットの思考がふわりと目を覚ます。
視界が開けたガーネットは鏡に視線を滑らせた――左首元の傷痕は、コサージュにより見事に気配を消していた。それどころか、水色のセーラーワンピースに橙色の薔薇のコサージュは映え、より一層華やぎが咲き誇っている。
傷痕がまったく見えない……わからない。
それに、なぜかしら。
このコサージュが首元にあると、心が軽くなって不安が消えていく。
ガーネットの青碧の瞳に煌煌と、一等星の如く輝きが瞬いた。その瞬きは、絶望に伏していたのが嘘のように、活気を芽吹かせる。
コールはそっと橙色のコサージュに指先で触れ、宝物に触れるような柔らかな声を落とした。
「まあ、そんなに気にするものでもないと思うんだけどな……俺にはその傷」
口元に手を添え、ガーネットは小鳥がさえずるような笑い声をこぼした。
「うふふ、薔薇の蕾みたいって言うのでしょ」
「……憶えてたのか」
柔らかく頬を緩めたコールの視線に瞳を混じらせ、ガーネットは目尻を緩ませる。
「もちろん、そんな風に言われたのは初めてだったから。コールだけよ」
過ぎてきた日々を思い返し、静かにささめく。
「みんな目を逸らすか、けなしてくるかのどちらかだから……」
十六の頃。カイザー殿下に傷を理由にダンスの相手を断られたことがあった。
部屋で塞ぎ込んでいた私に、護衛になったばかりのコールは私が顔を上げるまで寄り添ってくれた。
その時に、私の傷痕を薔薇の蕾みたいに綺麗だって褒めてくれたのよね。
そういえば、コールとは初めて会った時から何の気なしに話せた……不思議。
鼻筋を掻き、どこか照れた様子で視線を外したコールはたどたどしく言葉を零す。
「それと、さ……俺はその服、似合ってると思う。その……すごく可愛い」
「……え」
とくん。胸の奥が弾むように跳ねた。
とくん、トクトク……。胸の奥が熱を帯び、鳥が羽ばたくように鼓動が舞い上がる。自分では止めることのできぬ早鐘が、ガーネットを急き立てていく。
え、私……どうしたの?
どうしてこんなにドキドキして、胸が苦しいの?
瞬間、ガーネットの腰元に柔らかな何かが飛び込んだ。
「ママさま、みてみてー!」
ルビィがしがみついてきたのだ。小さいながらも力強い抱擁が、ガーネットの思考を押し戻していく。襟元のコサージュを得意げに掴み、白い歯がこぼれるほどルビィは無邪気に微笑んだ。
「ルビィもね、セイラにお花つけてもらったの。ママさまとおそろい!」
「あら、とっても可愛いわルビィ。ふふ、お揃いね」
数刻後――
湖上街リングロータスを、ガーネットとルビィを乗せた馬車は出立した。
馬車の中、二人はお揃いのセーラーワンピースで寄り添い、すやすやと寝息を立てている。ガーネットの首元には、薔薇のコサージュが彼女の不安を包むように揺れていた……。




