第2話 傷モノ令嬢、母性に目覚める
「……お……お…………おがあさま゛あぁぁぁっ‼ あいたかったの……会い、たかったの……ひぐっ……ぐすん」
激しく泣き咽ぶ少女の震えを、ガーネットは胸元でそっと抱き止めた。息を吸い込むたびに零れるえずきが、広いダンスホールを僅かに揺らす。
周囲を取り囲んだ貴族たちは突然現れた少女に驚きつつも、ただ呆然とその光景を見つめていた。
そんな中、ガーネットだけは異なる景色を映していた。
この子に悲しい顔なんてさせたくない。
どうか泣き止んで、あなたの可愛い笑顔を見せて。
そう切に願いながら、幼き少女の肩にそっと触れた。指先から伝わる感触は儚く、今にも折れてしまいそうだと胸の奥が狂おしくなる。
ガーネットの胸に、説明のつかぬ愛おしい気持ちがあふれだす。これまで経験したことのない柔らかな熱が、譲れない想いを糧として小さな芽を芽吹かせていく。
この少女の涙が和らぐようにと、震える肩を労わるように擦った。
「大丈夫、大丈夫よ……もう大丈夫だから……」
そこまで口にして、青碧の瞳を瞬かせたガーネットは少女の顔を覗き込んだ。
「えっと……あなたのお名前は?」
すると、
「……え……あ! 忘れてたのっ。お母さまに会ったら、まずごあいさつしなさいってお母さまに言われてたんだった」
途端に、幼気な少女の涙は嘘のように引いていった。素早く髪を整え、きゅっと小さな指を重ねると、花のような笑顔をほころばせる。
「あたしはお母さまの子供のルビィなの。お母さま、お父さまが大変なの! お父さまを助けるのを手伝って!」
ガーネットのドレスの布地を握り締め、ルビィは必死な形相で訴えかけた。子供特有の急激な感情の転換に、置き去りにされたガーネットは眉をハの字にした。
「えっと……ルビィちゃん。私はあなたのお母様ではないわ。あなたのお母様は、会場にいらっしゃるのかしら?」
周囲に視線を巡らせても、皆は他人事のように成り行きを見守るばかりである。
心配していそうな方は、見当たらないけど……。
すると、ルビィは何か思い出したように、淡い青碧の瞳を輝かせた。
「あ、そうだ! お母さまに言われてたの。ベルフィオーレ家の『ひじゅつ』で来たって言いなさいって」
ルビィの口から飛び出した言葉に、ガーネットは目を丸くした。
「……秘術ですって?」
――ベルフィオーレ家の秘術。
それはベルフィオーレ家の者のみが行使したとされる、時を翔ける時空転移術のことだ。幾星霜の遥か昔に失われ、秘術が風化した現在は枕元で語られる子供の寝物語と化している。
ベルフィオーレ家と、あの家の血筋しか知らないはず。
なのに、どうしてこの子が……?
着込んだコートに苦戦しながら、ルビィは袖をごそごそと捲り上げた。
「まだ信じてもらえないようだったら、お母様がこれを見せなさいって」
重たげに腕から外し、ガーネットに掲げたのは、使い込まれ表面が摩耗した金色の腕輪だった。
だが奇妙なことに、ガーネットはその腕輪に大変な既視感を覚えた。
ルビィの小さな手からそっと受け取り、じっくりと観察する。不意に、自分の左手首に収まった腕輪へと視線を落とし、2つを見比べた。
やっぱり……私が5日前の誕生日に両親から贈られた腕輪にそっくりだわ。
こんな物まであるなんて、この子は…………え、これって。
腕輪に装飾された楕円状のエメラルドの宝石を見て、驚愕した。
数分前に、カイザーに突き飛ばされて生じた蜘蛛の巣のようなひび割れが、エメラルドの内包に寸分違わず刻まれていたのだ。
こんな珍しい傷まであるだなんて。
え……じゃあ、本当にこの子、は……未来から来たわたし、の……むすめ?
即座にガーネットの心臓が早鐘を打つ。それは緊張や不安からではなく、胸の高鳴りからくる喜びの早鐘で。
未来の私には娘がいるの?
だったら、お父様って……傷のある私と夫婦になってくれた奇特な殿方が?
すると、
「おい、ガーネット。その子供は何だ? 突然降ってきたように見えたが。それにその子供……お前のことを母と呼ばなかったか?」
背後から様子を窺っていたカイザーが、我慢できずに声を挟んだ。
途端に、ガーネットは自分の置かれた状況を思い出した。ルビィを包む指先にも、無意識に力がこもる。
幼いルビィの姿を、カイザーはじっくりと観察していた。
深海でもなお鮮やかな珊瑚色の髪、少々淡いがよく似た青碧の瞳。そして何よりも、どこかぼんやりとしたあどけない表情。
信じ難いものを目にしたように、カイザーの眉が皴を刻む。
「子供の頃のお前に瓜二つじゃないか……まさか、本当にお前の隠し子じゃないだろうな。婚約者の私をたばかっていたのかッ!?」
長い睫毛を震わせ、狼狽えたカイザーの強い声音が、頭上から叩きつけるように耳を揺らす。
しかし、ガーネットは冷静だった。
カイザー殿下の癇癪はいつものこと。
まずは、この子が私の未来の子供と悟られないようにしなくては。
護るようにルビィを抱き寄せ、ガーネットはカイザーに穏やかに微笑みかけた。
「ご冗談を。こんな大きな子を十九の私が産んだとお思いですか? 私のお腹が大きいことなどなかったでしょう。ひと月に一度は茶会でお会いしていた殿下が、一番知っていらっしゃるはずです」
そっとルビィに視線を滑らせながら、ガーネットは穏やかな川の流れのように滔々と言葉を積み重ねていく。
「この子は遠い親戚の……ルビィですわ。両親が問題を抱えておりまして、解決するまでの間、当家で預かっておりますの。お母様が恋しくて、面影のある私のもとへ訪ねてきたようです」
不思議。この子のためなら、苦手な殿下にも堂々と意見が述べられる。
「……本当か? お前が隠れて産んだのではないのか?」
右瞼だけをひくりと痙攣させながら、カイザーは疑念を帯びた眼差しをガーネットに向けている。
「いいえ、私は出産の経験などございません」
私が産んだ子供ではないから、嘘は吐いていないわよね。
どうにかしてルビィを連れてここから退出しないと、殿下が勘繰ってきたら面倒だわ。
「それでは可愛いお迎えも来たことですし、私は失礼させていただきます。ごきげんよう」
すくと立ち上がったガーネットは、ルビィの手を包んで寄り添うように歩き出した。髪色まで酷似した後ろ姿は、血の繋がった親子にしか見えない。
だが、そこに――
「待てっ!」
王太子の威厳を宿したカイザーの声が、ダンスホールの隅々まで反響した。
大理石の床にカツっとヒールの音を鳴らし、足を止めたガーネットはゆっくりと踵を返す。こちらを射抜くような眼差しで睨み据えたカイザーの存在が、視界をかすめた。
「妾になるという話が途中だったろう。さっさと了承しろ」
「それは……」
ガーネットは左手に繋いだ温もりの先、ルビィに視線を滑らせる。『どうしたの?』と言いたげに、愛らしく首を傾げているルビィを瞳に映すと、不思議と心に力が宿った。
「お断りいたしますわ。私とカイザー殿下はもう婚約の間柄ではございません。そのお誘いは、これから出会われる方のために取っておいてくださいませ」
「……は? ガーネット、お前っ」
引き留めようと手を伸ばしたカイザーの腕に、しなやかな手が絡んだ。薔薇の蔦のように絡んだ指先の持ち主は、ねっとりとした声を周囲に纏わせた。
「カイザー様ぁ、そんなお方は放っておいてぇ、そろそろパーティを楽しみませんことぉ? ようやく叶った婚約解消のお祝いを、ミスティナといたしましょうよ~?」
「あ、ああ……」
顔を上げると、すでにガーネットたちの姿は消えていた。
ルビィの手を取って、急ぎ廊下へと飛び出す。華やかなダンスホールとすると、静かな廊下の人通りは疎らだ。
緊張がほどけ、ガーネットはほっと胸を撫で下ろす。
すると、背後からその肩を優しく叩く者がいた。
「ガーネットお嬢様っ! 馬車の準備はすでに整っております」
「セイラっ。ええ、すぐに帰りましょう」
侍女のセイラに導かれ、ガーネットたちは夜会を後にした。
∻❖∻
揺れる馬車の中。
ガーネットの膝の上には、安心しきった寝顔のルビィがすやすやと寝息を立てている。
自分の髪色によく似たルビィの髪を、ガーネットは慈しむように撫で梳く。ガーネットの髪質とすると柔らかく、緩やかな癖がある。
その眼差しはほんわかと温かく色づき、ほんのりと母の感情が芽生えていた。
この子は、私の未来の娘、らしい。
…………正直、まだ信じられないけど。
不意に、ガーネットの瞼にルビィの必死な面差しが蘇った。
『お父さまを助けるのを手伝って!』
助けるのを手伝うって、どういうことなのかしら?




