第1話 傷モノ令嬢、未来の娘と出会う
――ガサッ。
漆黒の闇を纏った静寂の森に、草を踏みしだく音が響いた。
「はぁっ……はあ……早く、はやくにげなきゃ!」
ぜぇぜぇと荒い呼吸を闇夜に溶かし、幼い少女は今にも転びそうな足取りで漆黒を駆けていく。
少女は、まるで何かに追われるように背後を気にしていた。
疎かになった足は石を蹴り、転がるように前へと倒れ込む。
膝から滲む血は熱を帯び、じんじんとした痛みが涙を誘う。が、ぐっと唇を噛みしめ、幼い少女は目尻の涙を拭った。
「……うっ……泣いちゃ、ダメぇ。お母さまと約束したもん……ひぐっ……絶対に、お父さまを救ってみせるって!」
口元を一の字に結び、少女は決意を新たに昏い地を踏みしめた。
だが、少女は気づかなかった。
背後から、無慈悲な魔の手が迫っていたことを――
∻❖∻
――ニーレンベルギア王国。
さる伯爵家の夜会にて。
豪奢なダンスホールの中央、星屑を散りばめたような煌めくシャンデリアの下――ガーネット・ベルフィオーレ侯爵令嬢は、面倒事の渦中へと立たされていた。
「ガーネット・ベルフィオーレ! 今、この場でお前との婚約を破棄する!」
氷雪のように冷気を帯びた声が、一瞬でダンスホールを支配した。
冷淡に唇を動かしたのは、ニーレンベルギア王国の王太子カイザー・レオサル・ニーレンベルギアであった。
14年連れ添った婚約者を断ち切るような冷厳な眼差しで、ガーネットを見下している。だが軽んじられたガーネットは驚いた様子もなく、呆れたように床に視線を縫い付けていた。
大理石の床に映った珊瑚色の髪の自分と視線を交わし、同意を求めるように溜め息をこぼす。
はあ。もう何度目かしら。その言葉を投げつけられたのは……。
人様の夜会で余興のように婚約破棄を言い渡されるのも、今回で不名誉な10回目。普段ならば、ここで私の護衛騎士たちや、王太子側の重鎮が間に入って茶番は終了となる。
しかし、今宵はどこか異様だった。
騎士団の短期巡察に強引に駆り出され、私の護衛二人は不在。
頼みの重鎮たちも国王の視察に随行しており、夜会には不参加である。
遠くで侍女のセイラが案じる視線を寄越すだけで、周囲を見渡しても、我がベルフィオーレ家と縁遠い者ばかり……。
知った顔といえば、私と敵対している令嬢が点々と、高揚した口元を悟らせまいと扇子で隠しているのみだ。
偶然にしてはあまりに出来過ぎだわ。
今回の首謀者は、意外と計算高いのやもしれない。
この策を講じた人物はおそらく――白亜の礼服に身を包んだ王太子カイザーの腕には、亜麻色の柔らかな髪を揺らめかせた令嬢が纏わりついている。
その令嬢に甘い視線を送りながら、カイザーは棘のある声を落とした。
「私の可愛いミスティナに酷い仕打ちをしたそうだな」
すると、カイザーの傍らから甘く媚びた声がぬるぬると響いた。
「カイザー様ぁ~、そうなんですぅ。ガーネット様ったら、王城の階段でぇ私にぶつかってきてえ、謝りもしないんですよぅ。酷くないですかぁ~?」
ねっとりとしたミスティナの声に、ガーネットの瞼が僅かにひくつく。
金色に輝く腕輪をきゅっと握り、乱れた精神を鎮めた。
瞼を引き攣らせたまま、雫がこぼれ落ちたような凛とした声で応じた。
「何をおっしゃるのでしょう。ぶつかったも何も、私は、ミスティナ・クレメンツ様とは初対面ですが……」
ガーネットの言葉に、真っ先に反応を示したのはカイザーだった。
嘲るように口元の端を吊り上げ、煌びやかな黄金の髪を払う。そして、ゆっくりとガーネットの首元へと視線を滑らせた。
「……はっ、でたらめを言うな。お前はその醜い傷だけでなく、心まで穢れているのか」
ガーネットは反射的に左の首元へ指先を走らせた。
首元は純白のレースのショールに覆われている。疾うに癒えたはずの傷痕が、ショールの下でズキリと疼く。
子供の頃、賊に襲われて残った首元の傷。
長い年月が過ぎて目立たぬ傷となった今でも、鏡で視界に入るたびに胸がざわめき、忌むべき者のように私を苛んでくる。
ガーネットの青碧の瞳は揺らめき、肩がほんの僅かに竦んだ。
その微かな反応さえ見逃さず、カイザーは蔑むように瞳を歪めた。
「お前のような傷モノが、将来の王妃を務められるはずがない! 王妃はミスティナのような、清らかな心の持ち主がなるのが道理だろう」
一国の王太子が一人の令嬢を、唯一の婚約者を蔑もうとも、その行いを諫める者など誰一人としていなかった。
逃げ道を塞ぐように取り囲み、冷ややかに静観するばかりだ。
くっと奥歯を噛み締め、ガーネットはカイザーを静かに見据えた。
胸の底から、婚約者への憤怒と諦めが湧き水のようにあふれ続ける。
首元の傷が私のトラウマと知りながら、カイザー殿下はわざと残酷に踏みにじる。昔は優しかったのに、この傷を負った時から変わってしまった。
そういえば……この傷を薔薇の蕾みたいに綺麗だって褒めてくれた人がいたわ。
ふんわりと瞼に浮かんだその後ろ姿に、つい口元が綻んだ。
私とカイザー殿下の婚約は、国王の意向が取り持ったものだ。
あまり芳しくない国益を苦慮し、ベルフィオーレ侯爵領の金鉱山に目を付けた国王の思惑だろうと、お父様は話していた。
両家の、繋がりのための婚姻。
家の決めたことと、心のどこかで諦めていた。
身勝手に婚約破棄を告げられ、傷モノと貶める。
私を疎む殿下との未来なんて、きっと地獄でしかないのでしょう。
こんな馬鹿らしい茶番に10回も耐えたのだもの、もう、いいわよね。
首元の傷をショールの上からそっと撫でつけ、ガーネットは顔を上げる。
その青碧の瞳は太陽のように瞬き、静かな覚悟がそっと芽吹いていた。
「殿下のおっしゃる通り、この婚約に終止符を打ちましょう……婚約誓約書と婚約解消書は、もちろんお持ちなのですよね?」
整った眉を寄せ、カイザーは首を傾げている。
「ん……何だそれは?」
すると、傍らのミスティナがカイザーの腕から手をほどき、にやりと目を細める。
「はい、もちろんご用意しておりますわぁ♪」
ミスティナがパチッと指を打ち鳴らすと、クレメンツ家の従者が2通の書状を恭しく携え、ガーネットの眼前へと進み出た。
差し出された書状に目を通す。
婚約誓約書のどこか見覚えのある、それでいてもう戻れないであろう幼い筆跡をそっとなぞった。
「私の字に相違ないです……では」
羽ペンを受け取ったガーネットは、流れるように自らの名を綴る。
従者はその書状をカイザーのもとへと運び、署名を促した。
書状を受け取った従者は、恭しく儀礼を施すと疾風の如くホールを後にした。
おそらく、貴族院に書状を提出するのだろう。つまり、これで……
「これで私たちの婚約は過去のものとなりました」
ガーネットの唇も、花を咲かせたようについ綻ぶ。
だが、久方ぶりに咲き誇った安堵も、カイザーのひと言で枯れ果てた。
「そうか。ならばお前は、私の妾にでもしてやろう」
「んな……何を馬鹿なことをっ!?」
その言葉が、カイザーの琴線に触れた。
眉間に深い皴を刻み、カイザーはガーネットの手首を乱暴に掴み上げた。
「馬鹿だと? お前こそ、その忌み嫌った傷を他の男に見せられるのか? そんな醜い傷を持ったお前を伴侶にもらう者などいないだろう。孤独に死に絶えるのが関の山だ」
握り締めた指先に、ギリギリと手首が軋んだ。
食い込むような痛みに、ガーネットは抗って身を捩るが、カイザーはそれを許さない。
「だから、私がもらってやると言っている。ま、妃でなく、妾に限るが」
締め付けた指を必死で引き剥がしながら、ガーネットはふるふると首を振った。
「……い、嫌ですっ」
殿下の言う通り、傷のある私は結婚せず、独りで死んでしまうのかもしれない。
子供だってきっと……。
掴んだ手首をぐっと引き寄せ、カイザーはガーネットの耳元で低く囁いた。
「逆らえば、私を『馬鹿』と冒涜した不敬罪で両親共々、処刑台に送ってやってもいいのだぞ」
ガーネットの顔色が蒼白に染まる。
瞳に涙を溜めたガーネットは唇を震わせ、逃げ場を探るように視線を彷徨わせた。
苛立ちを覚えたカイザーは、力任せに押し払った。
「きゃっ」
ガーネットの身体は冷たい床へと叩きつけられた。
――パリッ。何かが割れたような微かな音がした。
ガーネットはゆっくりと腕を持ち上げ、手首の腕輪へと視線を落とす。
腕輪に装飾された美しいエメラルドの内包に、蜘蛛の巣のようなヒビが入っていた。倒れ込んだ拍子に、床に腕輪を打ち付けてしまったらしい。
ああ……5日前の、19歳の誕生日に両親からもらったばかりだったのに……。
悲しんだのも束の間。
ガーネットの遥か頭上――シャンデリアの水晶が小刻みに震え出す。
空気を伝う震動が渦を巻くようにうねる。そのうねりは黒い歪みを生み、じわじわと輪郭を広げていく。
子供が通れるほどの大きさに達した途端、ポンッと産み落とされたように何者かが飛び出した。
まるで重力などないように、ゆっくりと舞い降りたのは幼い少女だった。
少女は、真下にいたガーネットの膝へと羽が舞うように座り込む。
珊瑚色の髪をふわふわとなびかせ、瞼を伏せた少女はそっと光を迎え入れた。
現れた淡い青碧の瞳は満月のように丸く、忙しなくぱちぱちと瞬く。
淡い青碧の瞳がガーネットを捉えた。
途端に少女の瞳と唇は限界まで開かれ、表情は驚嘆に揺れる。
呼応するかのごとく、ガーネットも少女によく似た青碧の瞳を瞬かせた。
ぱくぱくと唇を動かしながら、少女は助走をつけるように喉を微かに震わせる。
次の瞬間――
「……お……お…………おがあさま゛あぁぁぁっ‼」
少女の叫びが、涙とともにガーネットの胸元へと飛び込んだ。




