第19話 ミニトマト事件
「ふぁ~あ……」
まだ眠いとばかりに瞼を擦るルビィと手を繋ぎ、ガーネットは階下の食堂へと向かった。二人の影を追うように、セイラと護衛騎士2人もあとに続く。
食堂の入り口には、見知った顔が佇んでいた。月白色の髪を揺らし、誰かを待ち侘びるように顔を上げる。通りすがる人物を確かめては、握った新聞記事に視線を落としていた。
レオンハルトのコバルトブルーの瞳がガーネットを認めた瞬間、夜を照らす月のように甘い微笑みが灯った。何やら、大変に上機嫌である。
「やあ、おはようガーネ。あれ、浮かない顔だね?」
レオンハルトの手元の新聞に目を落としながら、ガーネットは掠れた声を零した。
「おはよう……レオンは今日の新聞を読んでいないの?」
「いや、読んだよ。このカイザー殿下の記事、僕が書かせたものだし」
新聞の一面をちらりと示しながら、レオンハルトは穏和に微笑んだ。王家の一大事を招いた人物とは到底思えぬほど、風の凪いだ海面のように穏やかに笑いかけた。
あまりの平常運転に、ガーネットも3秒ほど思考が空白に染まる。
「……え」
見出しの『カイザー殿下』の文字を目の仇のように指先で弾きながら、レオンハルトは唇に笑みを刻んだ。
「こうして公に婚約解消を周知させれば、強硬手段は取れないからね。ガーネを守るための防衛さ」
「それは感謝しかないわ……でも、王家よりも先に発表して平気なの?」
ガーネットの青碧の瞳は心配の文字を浮かべたように、レオンハルトだけを映していた。その眼差しを受け、レオンハルトの唇は歓びに震えるように弧を描く。
ああ、ガーネが僕をこんなにも心配して……嬉し過ぎるっ。
「ん、ふふ。そこは問題ないよ。僕だって策を練っていないわけじゃない。王家に対抗する切り札くらいは用意してあるさ、たっぷりと、ね」
余裕さえ纏うその笑みに触れ、ガーネットの胸奥に不思議と安堵の波が広がった。
「たっぷり……レオンがそう言うなら。あ、そうだ。こっちは読んだ?」
レオンハルトから新聞を受け取り、ガーネットは目当ての記事を探し始めた。捲ろうとした瞬間、まるでひとりでに開いたかのように目的の記事が姿を現した。
ガーネットはその紙面をレオンハルトへと差し示す。
「ん、なになに…………えぇっっ、僕とガーネが婚約間近!? いや、これは知らなかったなァ……一体誰が書いたんだろうっ?」
驚きの声を嬉々として漏らしながらも、レオンハルトの口元には満面の笑みが浮かんでいた。
――いや、絶対お前の仕業だろ。
そんな声が聞こえてきそうなほど、ガーネットの背後でコールが顔を引き攣らせている。
気づいたレオンは、唇の端だけをひそやかに吊り上げて微笑みを返す。
その口元がすべてを語っていた。
宿屋に併設された食堂の奥にて。
ガーネットは、ルビィとレオンハルトとともに朝食を取っていた。
壁際には、侍女のセイラ、護衛のゲオルグとコール、そしてレオンハルトの従者と護衛も控えている。
ガーネットはぬるくなったパンプキンスープを口に運びながら、ルビィの食べかけの皿に目を落とした。皿の端に、赤いものが艶やかに光る。丁寧に除けられたそれは、紅玉のように輝く2粒のミニトマトだった。
嫌いなのだろうと薄々察しながら、何も知らない顔で尋ねた。
「ルビィ、ミニトマトは食べないの?」
ぴたりと、ルビィのフォークを持つ手が止まった。視線を逸らしながら、ルビィにしては沈んだ声音を奏でる。
「……ルビィ、ミニトマトきらい」
ルビィの暗い影を払うように、ガーネットは軽やかな声を響かせた。
「あらどうして? 甘くて美味しいじゃない」
「……ぐちゃぐちゃして、きらぁい」
両頬を風船のようにぷくっと膨らませ、愛らしい口をへの字に固めている。不機嫌を絵に描いたようなルビィの顔つきに、ガーネットは頭を抱えた。
こういう時、親ってどうするものなのかしら。
自主的に食べるまで待つ? それとも応援して、食べる努力をさせる?
ど、どっちなのだろう……?
途方に暮れたガーネットは、セイラに助けを求めるように視線を投げた。「任せてください」とウインクを添え、セイラは軽やかな足取りでルビィへと歩み寄った。
「あら、ルビィお嬢様。ミニトマトを食べないだなんて勿体無い。ミニトマトには、シミや皴を防ぐ美肌効果なんてものもあるのです。食べ続ければ、大人になった時、ガーネットお嬢様のような美肌美人になれますのに」
その言葉が耳に届くや否や、ルビィは隣席のガーネットを仰ぎ見た。陶器のように透き通った肌のママさまが、にこりと微笑みかけている。
「そうなの? ママさまみたいな大人……」
皿に載った真っ赤なミニトマトを見つめる。ルビィからすると、それはぐちゃぐちゃの美味しくない赤い悪魔だ。
お母さまも、これをおいしいって食べてたの。
みんな、これが好きなの?
迷いを宿したような瞳で、ルビィはそっとガーネットを仰いだ。
「ママさまはミニトマト好き?」
「ええ、大好きよ」
「セイラも?」
「はい、もちろんです」
「ゲオルグも?」
「……ああ」
「コールも?」
――返事がない。
何か共鳴するものが心に触れたのだろうか。
同士を見つけたように、ルビィの淡い青碧の瞳が星屑が瞬いたように煌めく。
「コールもミニトマト、きらい?」
僅かに肩をすくめたコールは、壁際に後退りたい気持ちを抑え、ほろ苦く笑った。
「はは、まあ……人間、好きなものもあれば、嫌いなものもあると思うぞ」
滔々と流れる川のように爽やかに言葉を連ねながらも、瞳は宙を彷徨っている。
ふんわりと意味が届いたのか、ルビィは小さな首を揺らし、うんうんと頷いてみせた。
「だったら、食べなくてもいいかもなの……」
あと少しだったのに――と、ガーネットやセイラの嘆きの声が耳奥に届いた気がして、コールは後ろめたげに視線を逃がす。
すると、くつくつとした笑い声が、向かいの席から響いた。




