第13話 傷モノ令嬢の守り手
聞き役に徹していたソニアの瞳が翳り、思い出したように狡猾な笑みが刻まれた。
「そういえば、私見ましたわ。ガーネット様が先ほど、主廊下でレオンハルト様と抱き合っていたところを……!」
空を裂くような扇子を開く音とともに、ヘイリーも侮蔑を含んだ視線を向ける。
「んまあっ、何て節度のないお方なのでしょうっ」
レオンが私に抱きついてきた場面を、この二人は目撃したらしい。
主廊下で起きたことは、瞬く間に王城を駆け巡り、やがては王都中へ……。
私はあの時、レオンハルトの妻の座を狙う数多の令嬢を敵に回してしまったのかもしれない。
ソニア・ノーランはレオンハルトに憧れていた。
主廊下で2人の抱擁を目撃した瞬間、ソニアの胸奥にこれまでとは異なる黒い炎が火柱のように噴き上がった。
汚泥のような濁った視線を瞳に宿し、一歩踏み込む。小柄なソニアは、ガーネットの顔を下から抉るように睨み上げた。
「幼馴染みか何か知りませんけど、レオンハルト様に近づくのはお止めになったら?」
ガーネットの影に不安げに身を寄せるルビィにそっと視線を滑らせ、
「隠し子もいるあなたのような身持ちの軽い方に、レオンハルト様の隣に立つ資格なんてございませんもの!」
その時、
「やめてっ。ママさまをいじめないで!」
小さな両腕を広げ、ルビィがガーネットの眼前に飛び出した。
眉をハの字に下げ、目尻には薄っすらと涙の陰が滲む。大好きなママさまを守るため、必死であった。
会話の意図は汲み取れなかったルビィだが、ソニアの嘲るような視線からガーネットが自分のせいでなじられていると察したらしい。
そんな健気なルビィの背を見つめ、ガーネットはルビィの視線に合わせるように腰を落とした。優しく諭すように、背後からそっと包み込む。
「ルビィ、ありがとう。私は大丈夫よ」
振り返ったルビィは、淡い青碧の瞳を輝く湖面のように潤ませ、声を震わせる。
「ママさまどうしてなの? この人たち、ママさまをいじめて……っ」
感情の昂りで揺れるルビィの柔らかな髪を、ガーネットは微笑みを添えてそっと撫で梳く。
「いいのよルビィ。私は何も気にしていないから」
だが、その言葉に顔色を変えたのは、ルビィではなく二人の令嬢のほうだった。
二人の胸に燻っていた黒い怒りが、堰を切ったように爆ぜる。
真っ先に激情に駆られたのは、ヘイリーだった。
「気にしてないですって!? そうっそれよ! あなたのその、自分は別格だとお高くとまった態度が、どうにも鼻につきますのよっ」
ヘイリーのこめかみには青筋が立ち、頬が歪んだように引き攣る。眉間には深い影が現れ、瞼はぴくぴくと脈打つように痙攣している。瞳は限界まで吊り上がり、鬼の形相の如く険しい憤怒が宿っていた。
ヘイリー様? ……何か、様子がおかしい。
異様な気配を肌で感じ取り、ガーネットは反射的にルビィを胸へと抱き寄せた。
寄り添う二人の恐怖など意に介さず、ヘイリーの眉間には憎悪の皴が濃く刻まれる。
「あなたなんて、あなたなんて…………っ‼」
ヘイリーの扇子がガーネットの頭上で高く持ち上げられた。ガーネットとルビィの瞳に扇子の影が差し込む。二人の怯えを堪能するように、扇子は宙に留まり、
――そして、時が動き出したかのように鋭く振り下ろされた。
あ、危ない!
ルビィの身体を強く引き寄せ、ガーネットは覆うように庇った。
ダメ、このままだと……っ。
私は傷ついたって構わない。もう既に私は傷モノですもの。
でも、この子だけは絶対に傷つけさせない。
私と同じ痛みを負わせるものですか!
すべてを受け入れる覚悟が定まった、その刹那。
「おっと……!」
男の澄んだ声が、静かに広がった。
ガーネットの瞳に映ったのは、夜闇を落としたような濃紺の髪を軽やかになびかせた広い背中。
この背中、よく知ってる。
だって彼は私の護衛の……
「……コール」
ピシッ。扇子の乾いた音が天を衝く。
服の上からでも変わらず響いたその音に、周囲の視線が集まった。
コールと呼ばれた男は、扇子を受け止めた腕を痛々しげに擦った。左目尻の泣き黒子が痛みにぴくりと引き攣っている。
「いててて。ただの扇子で打たれても意外と痛いんだな」
軽く負傷した腕を撫でながらも、琥珀色の瞳は睨むように令嬢たちを捉えた。どこか冷ややかな笑みを湛え、先ほどとは異なる整った声で紡いだ。
「どうなさったのですか、お二方。あなた方のような麗しい令嬢方が扇子を振り回すなど、まさか、騎士舎の前で謀反でも起こすおつもりですか?」
途端にヘイリーとソニアの肩が跳ね上がった。均整の取れた涼やかな顔立ちに冷厳と睨まれ、ひくりと息を吸い込む。ヘイリーに至っては、力強く握りしめた扇子を後ろ手にひた隠している。
「こ、ここっコール様……いえっ、えっと、これはですね、ぇ……」
戸惑うヘイリーの返事を待つことなく、コールは左目尻の泣き黒子を瞬かせ、
「謀反ではない? ならば、我が主ガーネット様を痛めつけて嬲っていたと? それはそれは……大層な趣味をお持ちだ。俺の友人たちにも一刻も早く伝えなければ……」
コールの、琥珀色の眼差しが導いた先――訓練場の稽古はすでに終了し、騎士たちは怪訝な瞳でこちらを窺っていた。
いつの間にやら注目の的であることに、ヘイリーたちはようやく気がつき息を呑む。
え……今まで、すべて見られていたの?
顔を見合わせた二人の瞳が困惑に揺れ、顔色は蒼白に染まる。
その困惑を断ち切るように、ソニアは声を上擦らせながら そろそろと後退っていく。
「あっ……えっと、私は午後からピアノのお稽古があったのでしたわ~……急がないと……し、失礼いたしますっっ」
1人置いてけぼりを食らったヘイリーも腰が引けたまま、ソニアの姿を追った。
「あ、ソニア様待って……では、私も失礼いたします、それではっ」
不利になったら颯爽と逃げ出す姿勢は、ここまで来ると清々しい。
まるで朝霧のように、二人の姿は訓練場から掻き消えていた。
ふぅと溜め息を吐き、コールは振り返った。
「やれやれ。怪我はないか、姫様?」
逞しい手が、柔らかく差し伸べられた。ホッとしたように瞳を綻ばせたガーネットは、コールの手のひらに身を預ける。
「ええ、どうにか……ありがとうコール」
琥珀色の瞳を鋭く光らせ、コールは私に怪我がないかと穴が空きそうなほど細かく目を走らせる。
彼の名はコール・ガルシア。私の護衛の一人だ。
侯爵令嬢の私を恭しく『姫様』と呼ぶ澄み渡った声も、普段なら茶化したようである。しかしこうして、いざとなれば身を挺して守ってくれるあたり、彼の本質を語っていた。
本当に、ガルシア家の人間とは思えない……。
姫様に傷ひとつないかと、今もコールはガーネットの無事を探るように確かめている。
胸を締め付けていた悲痛が解け、ガーネットはようやく安堵の息をこぼした。無意識にルビィの肩を抱き寄せ、ただ穏やかに口元を緩めるのだった。




