第5話 ハイデルベルク公爵
翌朝、空は高く澄んで晴れ渡っていた。
庭には涼やかな秋の風が吹き、心地よい冷気が頬を撫でる。昨日は曇天だったせいで寒々しい景色に圧倒されたが、今日は打って変わって爽やかな朝だ。窓辺から見える森の、青々とした木の葉が美しい。
昨晩は緊張して眠れるか不安だったけれど、意外にもぐっすり眠れたようで、フェンネルはすっきりとした朝を迎えた。
朝食を済ませると、フェンネルは屋敷の周囲を散策してみることにした。
ただ、窓の外に覗く庭は広大すぎて、とても一日では回りきれそうもない。
そこで、まずは屋敷の中を探検してみることにした。当面ここに住むことになるのだから、屋敷内の何がどこにあるかくらいは把握しておかなければならない。
食堂を後にして廊下に出ると、そこには先が見えないほど長い廊下が続いている。
赤い絨毯が敷かれた石畳の廊下、彫刻を施した柱、豪華なアーチ状の天井――そのすべてが規格外で、フェンネルは呆気に取られてしまった。
ふと窓の外に目を向けると、屋敷の中央に美しい中庭が広がっているのが見えた。
青々とした芝が一面に敷かれたそこには、美しく剪定された樹木や、薔薇の生け垣が立ち並んでいる。
フェンネルは興味を惹かれて、中庭へと足を踏み入れた。
色とりどりの薔薇の花を眺めながら、気の向くまま奥深くへと入っていく。辺りには秋薔薇の甘い香りが立ち込めていた。
夢中になって歩いているうちに、気がつけば道を見失い、迷子になってしまっていた。
外から見たときはさほど広くないように思えたのに、中は存外に入り組んでいて、戻る道がわからない。
(……どうしましょう。迷ってしまったわ)
あたりに人影は見当たらない。右往左往して歩き回っていた、そのとき。
「誰だ。ここで一体何をしている」
低く鋭い声が、背後から響いた。
驚いて振り返ると、そこには見知らぬ人物が立っていた。
艶やかな黒髪。宝石のように澄んだ淡紫の瞳。白い陶器のような肌をした、整った顔立ちの若い男性がそこにいた。
自分より少し年上だろうか。背はすらりと高く、切れ長の瞳には鋭い光が宿り、睨みつけるようなその眼差しに思わず息をのんでしまう。近寄りがたい威圧感を放つ一方で、あまりに整いすぎた秀麗な顔立ちには、つい目を奪われるほどだった。
身につけている衣服の上等さから、彼が使用人ではないことはすぐにわかる。
「私は昨日こちらに参りました、エポワール男爵家の長女、フェンネルと申します」
ぼうっと見とれていたフェンネルは、慌てて名乗った。
「君がフェンネルか。縁談の話に乗じて、この屋敷へやってきた私の新しい婚約者というのが君だな」
男はわずかに目を見開いた。
婚約者、と聞いてフェンネルははっとした。
「あなたが、この屋敷の主人、ユリウス様でいらっしゃいますね」
彼は名乗らなかったが、その口ぶりからぴんときた。
けれど、ここでフェンネルは首をかしげる。
公爵は、今は外出中で不在ではなかったのか。
それに、彼の容姿も噂とはまるで異なっている。噂では、呪いを受けた年老いたせむしの男ではなかったか。
不思議に思いながらも、フェンネルは改めてお辞儀をする。
すると彼は、まるで値踏みをするようにフェンネルを見つめ返した。
「遠路はるばるやってきたところ申し訳ないが、私は君に何も期待していない。この縁談は、私の親類が勝手に決めたことだ」
いきなりの冷たい歓迎に、フェンネルは胸が痛くなる。
確かに、昨晩使用人たちが噂していた。本来であれば公爵は、フェンネルではなく妹との縁談を望んでいたらしいことを。彼がそう言うのも無理はなかった。
「はい、存じております。これからよろしくお願いいたします……ユリウス様」
仕方なく、フェンネルは当たり障りのない返答をして、その場を受け流した。
「それで、君はここで何をしていたんだ?」
「実は、庭園を散策しているうちに、道に迷ってしまいまして……」
フェンネルは、自分がどうしてこんなところに迷い込んでしまったのかを思い出した。
「客間は向こう側だ。まったく、使用人も伴わずに、むやみに屋敷内をうろつくのは控えてもらいたい」
ため息をついて、彼は庭の裏手を指さす。
フェンネルは彼の指さす方を見やったが、不意にひとつの疑問が浮かんだ。
(――使用人たちの噂にあった、彼の〝呪い〟とは一体何なのだろう)
目の前の公爵には、特に変わった様子もない。それに意外にも、フェンネルが想像していたよりもずっと若々しい青年だ。しげしげと見つめるフェンネルに、ユリウスは訝しむような視線を投げかける。
「まだ何か?」
「あの、執事の方から、あなたは外出中で不在だと伺っていましたが」
「ああ、公務で地方に出向いていたんだ。たった今戻ったところだ」
本人に面と向かって、呪いの噂について尋ねるわけにもいかない。フェンネルは適当な話題を振ってごまかした。
「お邪魔をしてしまい、申し訳ありませんでした」
おとなしくその場を去ろうとした、そのとき――。不意に背後でユリウスが苦しそうなうめき声を上げ、その場に崩れ落ちた。
「ユリウス様、どうされたのですか」
フェンネルは慌てて彼のもとへ駆け寄る。すると、ユリウスは鋭い声で叫んだ。
「私に触れるな!」
凄むような形相で怒鳴られ、フェンネルは思わずその場に立ち尽くす。
しかし、そうしている間にもユリウスはまたしても顔を歪め、その場で身を縮めて蹲ってしまった。
再び彼に駆け寄ると、フェンネルは、彼の身に何か不穏な魔力の気配を感じ取った。
魔力を持つ者ならばわかる。彼はまるで、目に見えない何かに抗い、必死に耐えているかのようだった。
ただならぬ気配を察したフェンネルは、思わず彼の肩に手を触れた。指先が触れた瞬間、手のひらにビリッとした《《衝撃》》が走る。
そして、念じた覚えもないのに、手のひらの中で勝手に破壊魔法が発動したような感覚があった。
それはまるで、ユリウスを苦しめている《《何か》》を、フェンネルの魔法が打ち砕いているかのようにも思えた。
(……一体、何が起こっているというの?)
フェンネルは混乱しつつも、彼の肩に手を回し、魔力が発動するに任せてしばらく彼を支え続けた。そうするうちに、次第に彼の発作は治まっていった。
やがてユリウスは落ち着きを取り戻し、ようやく顔を上げる。
澄んだ淡紫の瞳を見開いて、彼はフェンネルの顔を覗き込んだ。
「一体、何が起こったんだ。君は私に何を?」
「わ、私にも、何がなんだか……」
フェンネルは安堵すると同時に、うろたえた。
本来、自分は何の魔力も持たないことになっている。魔力を使うことも禁じられている。ここで自分の魔力について、正直に語るわけにはいかなかった。
「君、凡人だと聞いていたが。……魔力を持っていたんだな」
言われて、フェンネルは顔から血の気が引いていくのを感じた。
自分にも、何が起こったのかわからなかった。フェンネルには、妹のような癒やしの力などない。あるのは、ものを破壊するだけの魔法。それなのに、どうして今、彼の発作を鎮めることができたのだろう。
どう言い訳すべきか迷うフェンネルに、ユリウスはさらに一歩踏み込む。
「今まで、この呪いを抑えられた者などいなかった。一体どうやって……君は何者なんだ」
「それは……」
詰め寄られ、いよいよ言い逃れができなくなったフェンネルは、あろうことかその場から逃げ出した。




