第4話 北の地へ
そんなわけで、フェンネルはめでたく婚約破棄され、北の辺境へと厄介払いされることになった。
目的地へ向かう汽車の中で、フェンネルは小さくため息をついた。
同行する付き人や使用人は一人もいない。屋敷内で嫌厭されていたフェンネルのお供を買って出る者など、誰もいなかったからだ。
それでもフェンネルは、自分でも意外なほどすっきりとした、晴れやかな気分だった。もう家族と関わらなくていいのだと思うと、肩の荷が下りたような気がしてくる。
しかし一方で、フェンネルにはある懸念があった。
これから向かう北の地には、ある恐ろしい噂があったのだ。それは、フェンネルが嫁ぐことになった辺境の領主、ハイデルベルク公爵にまつわるもの。
人々の間で、彼はこう囁かれている。
かの公爵は〝人食い鬼〟であり、これまで何人もの花嫁を迎えては、食らい殺しているらしい。年老いたせむしの男で、幼い頃にある呪いに侵されて以来、正気を失ってしまったのだと……。
確かに、言われてみればこの縁談には少し不審なところがある。
本来、公爵位は王族に近い血筋に与えられる最高位の爵位であり、縁談の相手も大貴族の娘が選ばれることがほとんどだ。それなのに、末端貴族の我が家にまで縁談が来るなど、通常ではありえない。
あまりにも家格の違うこの縁談は、我が家にとっては願ってもない話なのだろう。けれどフェンネルは、不安を拭えずにいた。
とはいえ、フェンネルにはすでに帰る場所などない。
そんなことを考えているうちに汽車は北へと進み、夜は更けていく。窓の外には、寒々しい気配が漂い始めた。
***
翌朝、汽車は北の地へと到着した。
北部は一年の半分が雪に覆われる、凍てつく土地だ。まだ夏の終わりだというのに、汽車から一歩外へ踏み出すと、身を切るような冷気がフェンネルの肌を刺した。フェンネルは思わず身震いしてしまった。
手持ちの小さな鞄を抱えて汽車を降りる。
辺りはあいにくの曇り空だった。それがこの寒々しい景色を、いっそう冷たく冴えさせる。行き交う人々は皆、肩をすぼめて分厚いコートの襟を立て、うつむきがちに足を速めている。
「エポワール男爵家のご令嬢、フェンネル様でいらっしゃいますね」
突然背後から声をかけられ、振り返る。
そこには、枯淡な顔つきをした初老の男性が立っていた。
「私はハイデルベルク公爵家の執事にございます。お嬢様をお迎えに参りました。どうぞこちらへ」
そう言うと、彼はフェンネルの荷物を受け取って歩き出す。
フェンネルはその背に従い、公爵家の用意した、見事な芦毛の四頭立ての馬車へと乗り込んだ。
***
屋敷へ向かう道中、フェンネルは窓から街並みと景色を眺めた。
噂どおり、この地はどこまでも寒々しい。遠くの山々は雪に覆われ、白く輝いている。駅前の小さな町を抜ければ、あとは枯れた草木が広がる痩せた大地。
今まで暮らしていた王都とは、まるで違う光景だった。それでもフェンネルは、そんな荒涼とした景色にさえ新鮮味を感じて、目を見張る。
やがて道が開け、視界の先に目的の城が姿を現した。
「ここが……公爵様のお屋敷ですか」
「はい。こちらが公爵様と、これからお嬢様がお暮らしになるお屋敷にございます」
フェンネルは思わず息をのんだ。
表門をくぐると、どこまでも続くかのような、広大なヘザーの丘が広がっていた。さらにしばらく進むと、石畳で整えられた庭園の遥か彼方に、まるで王宮のような巨大な城がその全容を現した。
呆気に取られて眺めているうちに、馬車は屋敷の玄関先へと到着する。
執事はフェンネルが馬車から降りるのを手伝うと、そのまま玄関へと案内した。
「旦那様はただいまご外出中にて、屋敷を留守にしております。お嬢様におかれましては、旦那様がお戻りになるまで、屋敷でお待ちいただきますよう申しつかっております」
「公爵様は、どちらに行かれているのですか?」
「旦那様は公務で、郊外の街へ視察に出向いております。数日で戻る予定と伺っております」
執事は簡潔に答え、再び歩き出す。
フェンネルは彼に導かれるまま上階へ向かい、客間のひとつへと案内された。
家主が不在のため、フェンネルは一人で遅い夕食を取った後、部屋に戻った。
すると、一気に旅の疲れが出てきた。
知らない土地で知らない人々に囲まれ、緊張が続いたせいかもしれない。身支度を整え、今日は早めに床につこうとフェンネルが立ち上がったとき。
――不意に、廊下の隅の方から、使用人たちの話し声が聞こえてきた。
「また……旦那様のもとへ、不憫な花嫁がやって来ましたわね」
「これで何人目かしら。今回も長くはもたないでしょうね」
「今までだって何度も縁談の話はあったけれど、皆さま旦那様の恐ろしさに耐えきれず、逃げ出してしまわれたもの。行方知れずになったまま戻らない方も多いと聞いたわ」
「……恐ろしいこと」
メイドたちはひそひそと、不穏な話題を口にしている。
フェンネルはドアの内側に忍び寄って、耳をそばだてた。
「今回も、本当は姉妹のうち治癒魔法を持つ方を花嫁にと望まれたそうですのよ。けれど、その方にはすでに婚約者がいたとか。だから仕方なく、何の力も持たない姉のほうが嫁いできたのですって」
「まあ……。妹君がいらしていたら、旦那様にかけられた呪いを解くことができたかもしれないのに」
「まったく、期待外れですわね」
ドア越しに聞いていたフェンネルは、息をのんだ。
どうやら公爵には、本当に何らかの呪いがかけられているらしい。そして、ここでも自分はまったく期待も歓迎もされていないのだと、知ってしまった。
フェンネルはショックを隠しきれなかったが、考えてみれば当然だ。
忌まわしい力を持ち、何の役にも立てずに厄介払いされた娘が、公爵家に釣り合うはずもない。
とはいえ、そんなフェンネルでも縁談を断られはしなかったのだから、ひとまず先方も了承しているらしいことはわかる。
(でも、この分ではここでの婚約生活も、どこまで続くか……)
期待していなかったとはいえ、フェンネルの胸には落胆がのしかかってきた。
(それにしても……公爵様にかけられた呪いとは、一体どんなものなのかしら……)
使用人たちの噂話を聞いた後、寝台に戻って考え事をしているうちに、フェンネルはいつの間にかうとうとと寝入ってしまった。




