信一 ♠ 竹川厩舎の大きな大きな第一歩
【小林牧場・竹川厩舎前】
今日も先生による馬体確認が終わったので、厩舎のまわりで軽い引き運動をしていた。調教のピーク時にいくと邪魔になってしまうので準備運動と時間調整をかねて、いつもこうしている。
今行けば高速車がビュンビュン走っているところに、超低速車が走っているようなものだ。
なんにしても俺の問題だ。
大学では馬術部だったので、そこでで培ったのは、長い鐙に足をかけて尻を鞍に乗せた一般的な乗馬スタイル。それに対し、騎手たちは短い鐙につま先をかけて尻を鞍から浮かせて背を丸める形で前傾姿勢をとっている。いわゆるモンキー乗りというやつだ。
かっこよくて真似したいところだが、とてもとても。
膝でバランスを取るのだというが不安定で姿勢をキープすることすら難しい。それを時速60キロものスピードの上でなんて無理な話だ。
俺の乗馬技術ではダグとキャンター(軽い走り)までがいいところ。つまりその程度で馬場にいるのは恥ずかしいということだ。
だけど、自分でいうのもなんだが、俺はあくまでも厩務員であって、馬に乗れれるだけでもたいしたもの。そう、たいしたもんだよ。
さあ、調教を終えた馬たちが引き上げてきているみたいだし、そろそろいいかな。
そう思ってコースへと向かおうとした時、ふと視線を感じた。
馬房の外壁に背を預け腕組みをする姿。誰? そう思ったのは一瞬のこと。
目深に帽子をかぶっているし、見える顔の部分はきれいさっぱり髭がないが間違いない。
「小野山さん。来てくれたんですか」
帽子のつばが上がり、睨むような目が突き刺さってくる。
「まったくよう。言い逃げなんて汚ねえ手使いやがって。もう、(娘が)喜んじまってどうやっても言いくるめできないじゃねえか」
「ってことは……」
改めて見れば、小野山さんはジーンズにポロシャツで足にはブーツ。つまりは調教スタイル。
「それより、おやじ(調教師)のところに寄ってきたら、めちゃくちゃ驚いていたぞ」
そりゃそうだろう。ヒメが肩回りの不安で休んでいた間は顔を見せなかったのに突然現れたのだ。いや、もっと長い期間か。
ヒメは寒い時期は筋肉が固くなり歩様が乱れて危険だということで、放牧にだしているらしいから、放牧とこっちに戻ってからの肩不安による調整で合わせると半年ぶりくらいじゃないか。
ちかちゃん(先生に聞いたのだが小野山さんの娘の名)なんか、週1くらいで会っていたそうだから孫みたいに仲がいいらしいのに。
「そりゃ、ぜんぜん来なかった人が突然現れたら驚きますよ」
「いや、そんなんじゃなくて。いやいや、それもあるけど。そうじゃなくて、今月末の出走をおやじが知らないってどういうことだよ」
しまった……昨日、ついそんなことを言ってしまったんだ。それにどうなるかわからなかったから、先生には何も話してなかった……。
「いや、それはなんというか……」
「いつから厩務員が勝手に出走まで決めるようになったんですかね。それともお前さんが特別なんですかね」
嫌味たっぷりの言い回しだが、なにも反論できない。ただ言えるのは、「すみません」
ヒメが顔を寄せ、頬ずりしてくれる。言葉は通じずとも、気持ちはわかってくれるのか。本当にお前は優しいやつだ。
その時、大げさなほどの舌打ちが聞こえ、「しょうがねえやつだな。おやじがああいう人じゃなかったら、張り倒されるか首になったっておかしくないぞ」
俺は視線を落としたまま、再び謝った。
「ったく、困ったやつが入ったもんだよ。後でちゃんとおやじに謝っておけよ」
怒られた子供のように、はい、の返事が小さくなってしまう。
「ところでお前の名前なんだっけ?」
その声に相変わらず縮こまった声で自分の名を告げた。
「信一か。おやじの正式なOKもでたことだし、気合いれていくぞ」
えっ? ってことは……。
「返事は?」
「はい!」
ヒメが驚いていななぐほど大きな返事をしていた。
「ところで腰のほうは……?」
「とりあえず今日のところはキャンター程度だろ。痛み止めを飲んだしなんとかなるだろ。後はマッサージでも電気でも効きそうなところを10件でも20件でもまわって、なんとかしのぐから心配すんな」
俺はうなずいて見せた。自然と力がこもっている。
「よし、行くぞ!」
そう言って近づいてきた小野山さんがヒメに手をかけ、片足を曲げた。俺はその足を腕で担ぐようにして持ち上げる。
軽々と馬の背に乗り、背すじを伸ばして座る姿はなんとも勇ましい。
さあ、ヒメ行くぞ。
俺までも勇ましい気分で、引き綱を引いてコースへと向かった。
【竹川家の和室】
先生の家の和室でのトップ会議。
3者、いや、寝ているとはいえウルルンもいるので4者会議。
「思っていたより体力は落ちてなさそうだったな」
小野山さんはそのことに驚いている。
「引き運動とはいえ、先生がびっしり時間をかけて乗り込んでくれていましたからね」
そう言って先生のほうを見ると、にこやかな顔でお茶をすすっている。
「今日は馬なりで軽く流してみたが、動きも悪くないし、明日は坂路で一杯に追ってみたいと思うんだけど、おやじはどう思う?」
「そうですね。今はどこにも不安はないし、いいと思いますよ」
レースまでは残り2週。追い切りは明日と基本的には来週にもう一回ということになる。
「信一君はどう思いますか?」
先生はまだまだ新入りの俺なんかにも聞いてくれる。前の厩舎では考えられなかったことだ。
「今日の調教の後も体にはなんの問題もなかったので、いけると思います」
「よし。決まりだな。それじゃあ、俺はこれで」
小野山さんは座敷椅子から立ち上がった。
先生が胡坐で小野山さんが椅子なのは偉そうにしているわけではなく、腰のことがあるからだ。
「いいところ見つかりました?」
昨日の今日だが、そう聞いてみると、
「これがいいとこあったんだよ。針灸なんだけど、昨日の調教の後行ってみたらいい感じなんだ。まあ、一時しのぎだけどな」
苦笑いを浮かべながら、じゃあな、と去っていく。
「じゃあ、俺は飯の買い出しに行ってきますね」
男2人。俺が食事担当を申し出たのだが、そちらもまだまだだ。スマホでレシピを見ながら、食材と格闘している




