信一 ♠ ヒメの弱点
いよいよ今日が最終追い切りの日だ。
先週の坂路での強い追い切りの後でもヒメはなんの問題もなかった。それどころか、時計(走破タイム)はC1の馬とは思えないものだった。
地方競馬は獲得賞金によってクラス分けがされている。大井競馬が属する南関東競馬の古馬(3歳または時期によって4歳以上)はC3からA1まで8段階ある。サトミノヒメは下から3番目のC1に格付けされている。
調教時計からも力が衰えたわけではなさそうだ。
それは馬体を見ても感じられる。9歳といっても毎年冬季は使えていなかったりと休養期間が長く数(出走数)を使っていないので、馬体が若い。
ということは、走らない原因はヤマ(小野山)さん? そうだ。この人のせいだ!
ヒメにまたがったヤマさんがウォーミングアップを終え、コース横にいる俺の目の前に。顔が……険しい。
すいません。冗談ですって。
「じゃあ、例のやつをやってくるよ」
別に怒っているのではなく気合が入っているのだ。そもそも俺は何も言っていないか。
「お願いします」
俺の声に、ヤマさんは小さくうなずき、向きを変えてゆっくりとコースへと戻っていく。
調教スタンドに上れば、双眼鏡を使って動きが確認できる。先週につづいて昨日の3者会議(ウルルンは気ままに外出中)で最終追いは競馬場と同じトラックコースで行うと決めていた。
今日のコース追いでヒメが近走どん尻(最下位)ばかりになっている〝弱点〟を確認するために。
先にスタンドに上がっていた先生の横に俺も陣取った。
あの馬だな。
双眼鏡でさがしていた馬を確認した。今日併せ馬(並走)する馬だ。とはいってもこっちが勝手にすることだが。
併せ馬とうのは基本的には自厩舎の馬どうしで行うことが多い。申し合わせて他厩舎の馬と併せることもあるが、うちのような厩舎の馬じゃ、見向きもされない。
ならば、ということで勝手に――ヒメが忍者のように背後から忍び寄っている。
俺らがいるのはいわゆる厩舎村。調教に関する情報も世間話のようにそこいらから聞こえてくる。双眼鏡越しに見えるあの馬が、今日の追い切りは単走(1頭)でびっしり追うという情報も掴んでいた。
4ハロン(ゴールの手前800メートル)棒の地点から馬のスピードが上がっている。ヒメも加速している。
相手はヒメよりクラスが2つ上のB2の格上馬だ。
すぐに馬体が重なった。
うん?
棚木という新人騎手がヤマさんのほうへと顔を向けている。
新人君は先生(所属の調教師)から単走の指示を受けているだろうに、ヤマさんが併せてきちゃったから、困惑しているようだ。
単走指示なんですとか、やめてくださいとか言っているのかもしれない。
だからといって、新人君なんかじゃ、ヤマさんをどうにかできるわけがない。
ピタリと併せ馬のまま3コーナーに差しかかっていく。
だが、すぐにヒメが離され始めた。
よし、ここからだ。ヒメがついていけなくなったのではなく、ヤマさんがあえてそうしたのだ。
ヒメは相手馬の真後ろにつけて、3コーナーから4コーナー、そして、直線は外側へとだした。
相手馬は新人君の鞭が飛び、ぐんぐん加速している。
ヒメにもヤマさんの鞭が入るが引き離される一方だ。
直線だけではない。相手馬の真後ろに入った後から引き離され始めていた。
やはり弱点は弱点のままだった。
戻ってきたヤマさんとヒメにも、お疲れ様、と声をかけ、口横のリングに引き綱を通した。
「やっぱりダメですか」
馬上からおりたヤマさんに、そう声をかけると、「(そう)だーな」
ヒメの弱点、それは砂をかぶると走る気をなくしてしまうことだ。力が残っていても、まったく反応してくれない。
現に今も、けろっとした顔をしている。つまりは全力をだしていないということだ。
ヒメの戦績としては19戦とC級の馬としては出走数が少なく、その中で3勝あげているのだから悪くはない。
だが、勝ち鞍以外はどれも惨敗なのだ。しかも、近5走はどん尻負け。
成績が極端なわけは、勝ちレースを見ればわかる。全てが逃げ切り。先頭を走っていれば他馬が巻き上げる砂を浴びることがない。
ならば、どのレースも逃げればいいのだが、まだまだ問題が。
「なんで(スタート)ゲートをすんなり出てくれないんですかね?」
ゲートが開いても飛び出してくれないのだ。のんびりとした牛のように、のっそりとしかでてくれない。
それでは、飛び出した馬たちが次々と前を横切り、スタート直後から砂を浴びて戦意は喪失し惨敗となってしまう。
「ゲート練習もしたし、いろいろ馬具もためしたけど、のんびりスタートだけはどうにもならんかったからな。もう神に祈るしかないな。大外枠にしてくださいって」
ヤマさんの言うとおりだ。抽選で決まる枠番が大外になるようにお参りでもなんでもするしかない。
どうしたって大外が欲しい。ヒメの3勝は全てが大外枠だったのだ。
内枠では少しでも出遅れると、コーナーに向けて外から寄ってくる馬たちに被され、包まれてしまう。となれば、ヒメは蹴り上げられた砂を浴びて戦意喪失。
過去のレース動画を見ても同じパターンで惨敗していた。だが、大外枠なら被される心配がない。そうなれば、ヒメの行き脚がいきてくる。
のんびり出た後でも、ヤマさんが手綱を激しくしごけば(手綱を持つ手を前後に動かす)、反応してスピードを上げていた。そして、行き脚がついてしまえば外側から馬群を一気にまくるようにして1コーナでは先頭に立っていた。
そして、鮮やかな逃げ切り勝ち。
だから、本当に神様お願いします。なんとか大外枠に。
「俺、神社まわりしときますよ」
「おう、頼むぞ。しっかり手を合わせてきてくれや」
そう言って馬からおりたヤマさんの顔が歪んだ。
「悪いけど、ちょっと肩貸してくれるか」
俺はすぐに肩をだし、ヤマさんのだされた手を受け止めた。腰に痛みがきているのだろう。
ヒメを引きながら、ヤマさんとゆっくり歩き、近くのベンチに導く。
針灸も、追い切りの激しい動きでは痛みをごまかしきれないのだろう。
ヤマさんが痛み止めを飲んだのは復帰初日のあの日だけで、その後は飲むのをやめたという。先週の坂路追いの後もそうだったが、今日はその時以上に辛そうだ。
飲み続ければ薬の効力が弱まると、辛くても耐え続けている。
レースの瞬間、その時のために。
この人のためにもがんばろうな、ヒメ。
横へと目を向け、心の中で声をかけた。




