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アイドルジョッキー馬になる  作者: ゆらゆらゆらり


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信一 ♠ ひとクセありそうな男です

  俺は赤信号で立ち止まると、スマホ画面の地図へと視線を落とした。


  ここを渡って、次にある道を入っていけばいいのか。

  ああ、あそこに見えるアパートみたいなのがそうか。


  先生に聞いた場所は小林(牧場)から30分ほど歩いて見つけることができた。時よりスマホで確認しながらなので、自転車なら10分もかからないだろう。


 竹川厩舎の主戦騎手である小野山やすしは、ここから小林牧場に通っているらしい。とはいっても、俺が厩舎に入ってから1週間経つというのに、顔を見たことがない。


 通常、騎手をはじめ調教師や厩務員といった人たちは厩舎で暮らしている。自宅があったり、家族が一緒に暮らしたりもしているので、ひとつの村、厩舎村といった感じだ。

 小林もそんな感じで、俺も先生の家でお世話になっている。


 先生の奥さんは亡くなり、子供はいなかったらしい。ということで、一緒に暮らしているのは先生と俺、それに猫のウルルン。それとサトミノヒメもだな。


 大井競馬場で厩務員になった時も厩舎暮らしだと思っていたのだが、あの(中牧)調教師は自分の自宅も含め、スタッフも厩舎村外に住まわせていた。

 ということで、俺もアパート暮らしだったが、俺たちのような厩務員は宿直制といいながら結局は毎日のように泊まり込んでいた。


 あの調教師は自厩舎馬の祝勝会で酔っぱらうと、「俺は先駆者を目指しているんだ」とよく口にしていた。住環境改革なんてことも。

 厩舎経営にしても新しい形を目指して徹底した合理主義だった。故に一部の馬主からは評価が高かった。

 いつもパソコンを見ながら、他馬の情報を集め、勝てずとも入着できるレースを選定していた。

 そして、入着すらできない馬は出走手当で稼ぐ。それが彼の主義だった。


 それもひとつの形なのかもしれない。でも俺は……受け入れることができなかった。






【小野山のアパート前】


 やはりこの3階建てアパートで間違いなさそうだ。


 真ん中に階段があり、全部で6室のようだ。俺が住んでいた1Kなんかじゃなく、もっと広い感じだ。ファミリータイプなのかもしれない。


 階段のところにある集合ポストに小野山という名がある。それを確認した時、すっと指が伸びてきた。

 指から腕と追うようにしていくと無精ひげの顔が。


 睨むような視線が向かってきたと思ったら、すぐにそれていく。ポストを開けて、中のものを掴んで階段へと足をかけている。


 慌てて、「小野山さん」と声をかけて呼び止めた。

 振り返った顔は俺に対する不信感が漂っている。30代後半らしいが、どこか疲れ切った感じだ。


「大前信一といいまして、竹川厩舎で厩務員をしている者です」


 俺の声を流すように「そう」とひと言あっただけで向きを変えている。そのまま足は次の一段、また一段。


 俺は声を飛ばした。「サトミノヒメが出走します」


 足が止まった。振り向かない彼へとさらに、「攻め(追切り)をお願いします」


 沈黙の時が流れていく。

 そして、背を向けたままの彼からぼそりと聞こえてきた声は、「俺は引退するんだよ」


 それは先生から聞いて知っている。今月いっぱいということも。


「それでもお願いします。今はまだヒメの主戦騎手はあなたです」


 彼は振り返った。怒りにも似た険しい顔がそこにある。


「俺は……俺は騎手なんかじゃねえよ。聞いてんだろ。馬にまともに乗れやしねえんだ」


 聞いている。ここ最近腰痛でまともに騎乗できていないということを。

 先生の話では、だいぶ前から腰に痛みや違和感があったらしく、年々成績が下がっていたらしい。


 俺も大井所属の厩務員の端くれだったので、この騎手の名前くらいはなんとなく知っていた。

 失礼な話だが、俺は若ぞうな上に、馬しか見ていない馬バカなもんで……。


「腰のことは聞いています。もし、どうにもならないというなら……」


 言葉に詰まる。あきらめる、そう言うしかないのかもしれない。今はまったく乗れないほど悪いのかもしれない。

 それでも……先生の姿が浮かんでくる。

 ここに来る前、先生と小野山さんのことを話していた時、先生の目は壁に飾られた写真を見つめていた。

 写真の下にある文字には京浜盃とあり、馬名と竹川厩舎、先生の名と厩務員の名、そして、騎手小野山やすしとあった。


 他にも重賞勝ちの写真が2枚。馬の背は全て小野山さんだった。


 強い馬となると、重賞前にトップジョッキーに乗り替わることも多々ある。大きなレースを取るために、勝てる騎手にというのは、ある意味当然なのかもしれない。

 だが、先生は今も昔も小野山さんを乗せ続けている。ともに成績が落ちようとも。


 勝負の世界で生きる者として、そんなの甘っちょろい、と笑われているのも確かだ。俺だってそう思わないわけじゃない。

 だけど、俺はそんな先生が大好きだ。

 だから、先生が心の中で望んでいることを叶えてあげたい。


「ヒメは今月末のレースを予定しています」


 先生がそう決めたわけじゃない。俺が今、勝手に言っていることだ。


「その意味がわかりますか?」


 俺の問いかけに、小野山さんの口に力が入り、強く結ばれた。


 あなたの騎手として最後の時のためです。そう言おうとした時、元気でかわいい声が聞こえてきた。


 パパ、と聞こえた声に振り返ると、おそらくママであろう人と手をつなぐ3、4歳くらいの女の子が。

 その子がにこにこ顔で見つめているのは小野山さんだ。


 幼稚園か何かの帰りなのか制服姿で、小野山さんのもとへと走っていく。

 それを、お帰り、と迎える顔が柔らかに崩れた。


 ふと、横に気配を感じ、顔を向けると女性が「こんにちは」と言って、小さくお辞儀をして、通り過ぎようとしている。


 俺もお辞儀をしながら挨拶を返すと、彼女の足が止まったので、「竹川厩舎の大前と申します」


 すると、彼女から声が聞こえてくる前に足音がし、下から「じいちゃんのところ?」


 じいちゃんって先生のことだよな。家族ぐるみの付き合いがあるのだろうか。


 俺は身をかがめて、「そう。お馬さんがいるところ。行ったことあるの?」


「うん。ようちえんのかえりにママとね。それでね、ウルちゃんとあそぶの」


 見かけたことがあっただろうか。まあ、牧場の中には厩舎関係の子供たちもちらほらいるし、気付かなかったのだろう。

 小林に来てから1週間、引っ越しや仕事でバタバタしていた上に、他のことでも牧場外にでていることが多かった。


「ママ。あしたいこうよ」


 女の子の顔が向かったほうへと俺の視線も向う。女性が「そうね」と微かにほほ笑んでいる。

 そして、視線は俺のほうへ。

 顔を見合わせると、「そういえば、先生のお宅のほうで、ちらっと見かけたことが」


 どうやら、挨拶程度はかわしていたらしい。


「すいません。なんかバタバタしていていたもんで、ちょっとなんていうか……」


「そうそう、なんだかお忙しそうで、止まることなく『どうも』って、どこか行っちゃってましたもんね」


「ほんと、適当で失礼なやつなもんで」


 彼女たちとは、そんな感じだったようだが、小野山さんとは本当に初めてだ。

 彼は今、立ち止まったまま何かを考え込むように視線を落としている。


「ねえ、ヒメちゃんはいつ、かけっこするの?」


 女の子が顔を向けてくる。


 俺は適当で失礼な上に、ずるい男ですからね。

「もうすぐだよ。パパと一緒にかけっこするよ」


 すかさず小野山さんから「おいっ!」、驚きに満ちた声が飛んでくるが知ったこっちゃない。


 女の子が「パパ、ほんと?」と跳ねるような勢いでかけだしていく。


 俺に向けてくる怒り顔と嬉しそうな娘に向ける困り顔が行ったり来たりしている。


 そんな姿に小さく頭を下げ、女性にも頭を下げてその場を後にした。


 後はどうなるか、わからない。


 俺は、サトミノヒメが待つ小林牧場に向けて、足をはやめた。

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