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私の婚約契約書は嘘だったのね? 元引きこもり皇女は幸せになるため、お茶会を開き、お店を始めます。悪役たちにはざまぁを差し上げますわ  作者: 西野 歌夏
洋梨のタルトと、消えない署名

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84. 生意気な彼が、私の夫になりました

 それから二年と少し経った。


 ゴーニュ門通りの店は、三度目の夏を越えた。

 カイの丸眼鏡は、とうとう一度も役に立たなかった。


 十七歳の誕生日には、カイが店の厨房で、私のためだけのタルトを焼いてくれた。


 そして、十八歳の秋が来て、私はついに花嫁になった。


 居並ぶ各国の要人たちは、ブルネットの髪にヴェールを掛けた花嫁を見つめていた。私だ。



 私は大好きなカイの花嫁になった。


 ——ついに、今日、カイと私の結婚式。


 ザックリードハルトから遠く離れたアンバーミード村の教会の鐘が、私とカイの結婚式の始まりを告げている。


 父の腕に手を添えて、祭壇へ向かって歩き出した。

 父は前を向いたまま、小さな声で言った。


「エレナにも、見せてやりたかった」


 ——お母ちゃま。


 私は亡くなった母を思った。


 池の向こうで、ずぶ濡れの私を見て笑った、十七歳のお母ちゃま。

 病床で、私を抱きしめてくれたお母ちゃま。


 ——『ずっと幸せに生きるのよ』


 ——今、私は幸せよ。

 ——お母ちゃまの呪文は、ちゃんと叶ったわ。 

 

 私は涙が溢れてきたが、皇帝である父が私の腕を優しく叩き、合図をした。


 そうだわ。

 泣くのは早いわ。


 祭壇の前では、十八歳になって輝くような美貌の新郎となった、カイ・アッシュクロフトが待っていた。


 私の夫だ。


 祭壇の前のカイが、私の花嫁姿を見た瞬間、息を止めた。

 ブルーの瞳が、みるみる潤んでいく。


 参列席で、アリスがそっと口元を押さえるのが見えた。

 

 ドレスの美しいトレーンの波で、フリッツとスピカが溺れかけているのを見て、私はトレーンを少し浮かせた。


 この二年のうちに術式は完璧に自分のものにした。


 花嫁のブーケには、白い薔薇の間に、小さな青い花が一枝差してあった。

 

 ローズマリー。

 花言葉は「思い出」。

 

 ——今日のことも、きっと全部覚えている。



 ヴァイセンブルクでは、誓いの言葉より先に、署名をする。


 私は銀のインクをつけたペンを取った。


 今度は、誰にも勝手に名前を使われていない。

 誰にも無理やりに書かされていない。


 私が選び、私の手で、自分の名を書いた。

 その隣に、カイ・アッシュクロフトの署名が並んだ。


 署名のあとで、誓いの言葉を交わした。


「君が忘れたら、俺が覚えている」

 カイの声は、少しだけ震えていた。

「俺が忘れたら、君が覚えていてくれ」

「ええ」


 私は頷いた。

「二人で、全部覚えているわ」


 スピカの銀針は、一本も立たなかった。

 それが何よりのお墨付きだった。


 ハンサムなカイのブルーの瞳が射抜くように私を見つめた。頬を上気させて、眩しいものを見るように、私の花嫁姿に目を輝かせた。カイの唇がそっと動いた。


「あいしてる」


 声は聞こえなかったけれど、私には伝わった。胸が震えた。


 息を呑むほど美しい青年になっていたが、ブルーの瞳には、あの日と同じ生意気な光があった。


「皇女、卵の匂いはもう取れたか?」

「とっくに取れたわ。あなたの生意気さは、二年経っても取れなかったけれど」

「それは一生取れない。諦めてくれ」


 カイの温かい唇が私の唇にふわりと落ちてきた。


 何度も重ねてきたはずなのに、夫となったカイとの口づけは、初めてのように新鮮だ。


 私は目を閉じ、自分からその口づけに応えた。


 唇が離れても、触れられたところに熱が残っている。


 今夜、祝宴が終われば、この人と二人きりになる。


 そう思っただけで、胸の奥が落ち着かなくなった。


「愛しているって俺にも言って」


 カイがそっと囁いた。


「愛している」


 私は囁いた。胸が高鳴る。


 ——くらくらする……。


 私の指にもカイの指にも結婚指輪が光っている。


 私の左手の薬指には、アッシュクロフト家の花嫁へ代々受け継がれてきた、家で最も大きなダイヤが輝いていた。



 ザックリードハルト皇帝の父が涙し、ルイ兄様とアダムがそっと涙を拭うのが見えた。ディアーナ姉様は号泣していた。アリスの隣に、フェリクス殿下が立っている。


 最前列では、カルメンが手帳を開いていた。


「誓約署名、十時二分」と、声に出さずに唇が動いている。その隣のアダム兄様が、ちらりと彼女の手帳を覗き込んだ。


 リゼットは扇で顔を隠していた。泣いているのを見られたくないのだと、私には分かった。


 後ろの席には、イザベラがいた。目が合うと、小さく頷いてくれた。


 レスパーニュからは、エミリアとコンスタンツェが駆けつけていた。


 私の涙で、みんなの顔が滲んだ。


「皇女、俺の妻になったのだから、今夜は君を独り占めにするから、いい?」


 耳元でカイに囁かれ、私は真っ赤になった。


 披露宴には、ウェディングケーキの代わりに、カイが自ら焼いた洋梨のタルトが用意されているという。


 フリッツとスピカは、イヴォンヌの肩の上に飛び乗り、私とカイを熱心に見つめていた。


 扉の外へ出た瞬間、割れるような歓声が押し寄せた。


 帝国最大の大地主であるアッシュクロフト侯爵家とザックリードハルトの皇女の婚礼を一目見ようと、教会の外は領地の人々で埋め尽くされていたのだ。


 あの日と同じ生意気な目をしたカイが、今度は私の夫として、私の腰を引き寄せ、私にもう一度口づけた。


 教会の鐘が鳴り響いた。


 婚姻証書に銀のインクで並んだ二人の署名は、消えなかった。当たり前のことが、私の人生では最高なことなのだ。



***


 夜、カイは私の髪から、真珠の飾りを一つずつ外していった。


 あれほど堂々と各国の要人の前に立っていた人の指が、今はわずかに震えている。


 私も緊張のあまり、身体が震えた。


「怖い?」

「少し」


 その途端、カイの手が止まった。


「なら、今夜は何もしない。俺は君を急がせるために結婚したんじゃないから」


 カイはおでこにキスをして離れていこうとした。その手を、私は「待って」とつかんだ。


「怖いとは言ったけれど、離れてほしいとは言っていないの」


 カイは私を見つめた。ブルーの瞳が煌めく。カイの口角がかすかに上がった。

「君を大事にさせて」


 私は耳まで真っ赤になった。熱に浮かされたかのように体が熱くなる。


「私がカイにしてほしいの」


 私は誰の命令でもなく、自分の意思で、カイの胸へ一歩近づいた。


 そして、そっと自分から彼へ口づけた。


 唇を離すと、カイのブルーの瞳の色が、変わっていた。


「……言ったな」

 低い声だった。

「嬉しくて、どうにかなりそうだ」


 次の瞬間、私の体は宙に浮いていた。


 カイが、私を軽々と抱き上げていた。


「ちょっと、カイ……!」

「さっきまで泣いてたくせに、とか言うなよ。今は泣いてない」


 寝台に下ろされた。


 カイは私の両脇に腕をついて、逃げ道を塞ぐように私を見下ろした。


 あれほど指を震わせていた人と、同じ人だとは思えなかった。



「ね、明日の朝、飛ぶ長椅子で日の出を見ない?」

 苦し紛れに言うと、カイは片眉を上げた。


「随分余裕だな、俺の妻は」

 カイの唇が、私の耳に触れた。


 きゃっ!


 私は身をよじった。


「空を飛ぶより凄い世界を、二人でこれから見よう」


 カイの低い声で囁かれ、私は頷いてカイの首に腕を回してキスに応えた。



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