85. 私たちは、その行き方を知っている——初めての朝
夜が明けた。
朝食用のパンを買いに、村のパン屋まで飛んで行ったら、呆れられるだろうか?
私は隣で眠るくしゃくしゃの髪の夫を見つめた。
あれほど雲の上の存在のような、学院一のスターだった彼が、私の夫になった幸運に、まず自分が慣れない。
めくるめく夜を過ごした後、果たして、新婚夫婦はおとなしく朝食を食べられるのだろうか?
私は初めての経験に、まだ恥ずかしさと戸惑いがあった。幸せも。
昨日のことも、その前のことも、全部覚えている。私は術式を使っても、意識を失ったり、記憶を失ったりはしなくなったようだ。
私はカイのハンサムな寝顔をずっと見ていたいと思った。
だが、彼がふと目を覚まして、自分を見つめる私に気づいて、微笑んだ。彼のブルーの瞳は煌めいていた。
「日の出のこと、本気だったのか?」
シーツにくるまった私は、小さく頷いた。
カイはすぐには起き上がらなかった。私の髪に指を通し、額に唇を落とした。
「起きる前に、もう少しだけ」
「日の出が終わってしまうわ」
「日の出は明日も来る。でも、結婚して最初の朝は、今日しか来ない」
ずるい人だと思った。そんなことを言われたら、頷くしかない。
「じゃ、行こう!」
カイは勢いよくベッドから飛び出し、顔を洗いに行った。私も慌ててベッドから出て、自分が何も着ていないことに今更ながら驚いた。
ガウンを纏い、すぐに私も空の外出の準備をした。
地平線から、最初の光がこぼれた。
蜂の巣箱が並ぶ丘も、教会の尖塔も、一度に金色に染まっていく。
蜂蜜色に染まっていくアッシュクロフト領の空を長椅子が滑るように飛んで行く。
眼下の丘は、一面のヒースで淡い紫に煙っていた。蜂たちが、この季節最後の蜜を集める花だ。その丘を縁取るように、ナナカマドが赤い実を鈴なりにつけている。
ブナの森は黄金色に、白樺は明るい黄色に色づき始めていた。朝露に濡れた牧草地には、淡い紫のイヌサフランが点々と咲いている。
村の家々の庭では、ダリアと青紫のアスターが朝日に顔を向け、リンゴ畑の枝は、収穫を待つ赤い実の重みでしなっていた。
カイの腕が後ろから伸びてきて、私を優しく抱きしめた。
「気分はどう?」
カイの優しい声がした。
「最高よ。あなたの妻になって初めての空の散歩よ。大好きな夫と空を飛べるなんて、私は何て幸せ者なの」
「知ってる」
後ろで、カイが笑った。
「俺もだ」
カイの腕に、少しだけ力がこもった。
「あの春、金環日食を見に行く列車で、君の隣に座った日から、ずっとだ」
耳元で、低い声が続いた。
「二年半越しの恋だからな。もう、二度と離さないから、覚悟して」
私は耳まで真っ赤になった。
「……学院の令嬢たちに、一生恨まれそうだわ」
「恨ませておけばいい」
カイは、私の肩に顎を乗せた。
「俺の妻は、君だけだ。俺の隣には、君以外誰も座らせない」
この人は、昔からずっとこうだ。
生意気で、まっすぐで、私のことになると、少しも引かない
「おっ!村のパン屋が開いているぞ」
照れたようなカイの声が後ろからして、私はカイの指さす方を見つめた。確かに、村のパン屋はもう商売を始めていた。
「降りましょう。焼きたてを買いたいの」
長椅子が広場へ降りていくと、店先のおかみさんが目を丸くした。
「まあ、若旦那様に、若奥様!結婚式の翌朝に、パンを買いに?」
呆れられた。
けれど、おかみさんは笑って、一番大きな蜂蜜パンを袋に入れてくれた。
カイがその袋を抱え、私たちはもう一度空へ上がった。
新婚の夫は、私の唇にキスをした。頬を上気させて、澄み渡った空を背景に夫は私に囁いた。
「今朝は、誰にも邪魔させない。俺だけの奥さんでいて」
「今朝だけ?」
「……一生、お願いだ」
また、キスをされて、私は応えた。
焼きたてのパンの匂いの向こう、山の端に、灰色の雲が見えた。
「午後は降るかもしれないな」
「平気よ」
私は、夫の腕の中で小さく呪文を唱えた。
お母ちゃまから受け継いだ、この世で一番強い呪文を。
——カイと私は、ずっと幸せに生きるのよ。
山の端の灰色の雲が、ふわりとほどけた。
ほどけた雲は、丸い耳を二つ立てて、兎の形になった。
「……今の、君が?」
「ええ」
四歳の夏から、ずっとできなかった。
お母ちゃまの呪文は、今度は私とカイにかける番だった。
兎の形をした雲は、朝の光の中で跳ねて、どこかに飛んで行った。
私は、夫の腕の中で笑った。
幸せだ。
こんな素敵な日々を共に生きていけたら、と思うと、それだけで胸がいっぱいになる。
雨雲だって、兎に変えられる。
雨の日も、雪の日も、その上へ行けば、晴れている。
私たちは、その行き方を知っているのだから。
完
お読みいただきまして、本当にありがとうございます。
完了とさせていただきます。
これからも、皆様の毎日が健やかなものであることを祈っております。




