80.【アリス視点】私の夫は、本当に私の夫だったのでしょうか
エミリアの絶叫を聞いたフェリクス殿下が、客間から駆け戻ってきた。
「どういう意味……?あの夜の男は私だった?」
私はエミリアの動揺につられて、落ちつかない気分になった。
「あの夜の男は……?」
私はコンスタンツェの瞳をじっと見つめた。
彼女は教授に利用されていた。私を二十三年前に追いやるきっかけは、教授が作った。
教授が窓から私を落としたのが、きっかけだ。
結婚式で花嫁衣装の私を襲った男が「私だった」と仮にする。でも、結婚式は教会で盛大に行われたが、私が襲われた時間帯は昼間だった。夜ではない。
——あの夜の……?『あの夜』とは?
襲ってきた男と、ロバートが揉み合いになり、二人が絡み合って転がる姿が頭に蘇った。
その後、ロバートとは初夜を迎えた。
どういうことか分からない。私はエミリアの顔面蒼白の顔を見た。
「……あの初夜の夜の男は、私だった……?」
私はまさかと思いながら、エミリアに聞いた。エミリアはコクンと頷いた。
もう一度、無意識に繰り返した。
「……あの初夜の夜の男は、教授だったというの……?」
頭の中で、たった一つの夜が浮かんだ。
湯浴みのあとの私を見て、涙を浮かべた人。二人とも初めてだった、あの夜。何もかも脱ぎ捨てて、一つになったあの魅惑的で素敵な夜。
私は吐き気をもよおして、口元を抑えた。いつの間にか、フェリクス殿下がそばにいて、私の肩を抱いてそっと支えて「座って」と囁いた。
「気持ち悪い……」
私はそれだけ言うと、目を瞑った。
——ロバートと教授があの瞬間入れ替わった?
——どうやって?
教授は恐ろしいほど魔術の知識があって、実行力があった。でも、あの時、すでに署名は失効していたはずだ。私が失効登録したのだから。
——待って……名前は、付け替えられる。
私がアリス・ブランドンになったように。
——失効した署名も、別の名前で登録し直せるのだとしたら?
私は信じていた愛していた夫の正体が教授だった可能性に、吐き気が止まらなくなった。
——昼間、ロバートは教授ともみ合った。
——あのとき、入れ替わっていたのだとしたら。
——私が泣きながら愛した人が、二十三年間。
考えたくないのに、考えが止まらない。
「戻るわ……」
私は小さく呟いた。
——あの瞬間に戻るわ……!
——やり直す!
——絶対にだめ。
——私の夫の正体が教授であって良いはずがない!
——私の体と心を踏み躙った教授は、私の手で葬り去ってやるわ!
私は窓に向かって走ろうと身構えた。
——もう一度、ロミィの救済ポケットを使う!
一八六四年に戻る!
私が窓に向かって突進しようとしたその時、メイドがドアをノックした。
だが、私が返事をする前に、ジュリアン・ヴェインが飛び込んできた。ロミィの元婚約者だ。
ジュリアン・ヴェインが私に向かって走ってきた。
私はあの瞬間を思い出した。ダークブロンドの髪に、ヘーゼルの瞳……。花嫁姿の私を襲った男の姿をそこに見た。
立ち止まり、首を傾げて、微笑んだ。
「トロイメライは、まだ弾けるかい?アリス」
ジュリアンの声ではなかった。
幼い私の指を取って、鍵盤の上に置いてくれた、あの人の声だった。
私は悲鳴をあげて窓に向かって突進した。
——飛び降りてやる!
窓枠に手をかけた瞬間、後ろから手首をつかまれた。
強い力だった。
「飛ぶな」
フェリクス殿下だった。青い瞳が、まっすぐに私を見ていた。
「何があっても、君が落ちる理由にはならない」
その時だ。
窓が一気に開き、長椅子が猛スピードで飛び込んできた。私はその勢いで後ろにひっくり返りそうになり、フェリクス殿下に支えられた。
皇女ロミィだ!
長椅子は、ジュリアンに向かって突進し、彼の体を突き飛ばした。彼の体が勢い余って、宙に浮いた。ロミィが何かを鋭く呟くのが見えた。
ロミィの手から青い稲妻のようなものが出て、宙に浮いたジュリアンの体をぐるぐる巻きにした。長椅子はそのままジュリアンの体を空中で引っ張りながら、ジュリアンの体をさらに青い稲妻のような紐でぐるぐる巻きにした。
ロミィが叫んだ。
「アリス!騙されちゃだめ!あなたに過去に戻らせようとしているの!教授の策にハマってはだめ!」
ロミィが必死の表情で私に言った。
私はフェリクス殿下の腕の中で、部屋の天井付近を長椅子で猛スピードで飛び回るロミィを見つめた。
「策……?嘘なの?」
「嘘よ!ロバートは本物のロバート・ヘンリー・スペンサーよ!教授はあなたに過去に戻らせて、あの瞬間をなかったことにしようとしているの!」
私はただただ、呆然とロミィを見つめた。
「違う!あの夜、君を抱き、二十三年間夫として生きたのは私だ!」
蚕のようにぐるぐる巻きにされたジュリアンが叫んだ。
その瞬間、長椅子の上に白いハリネズミが姿を現し、銀針が、一斉に逆立った。
「その言葉は偽りだ!」
スピカが叫んだ。
「アリスと二十三年を生きたのは、お前ではない。ロバート・ヘンリー・スペンサーがアリスと交わした婚姻の誓いは、本物だ」
私はフラフラと倒れかけ、フェリクス殿下に支えられた。
ロミィは私に向かって叫んだ。
「ジュリアンの中にいるこいつを外に放り投げてくるわ!二度と、この世界に戻れなくしてやるわ!」
ロミィは開いた窓から、蚕のようにぐるぐる巻きにされたジュリアンの体をふわりと外に連れ出した。長椅子はジュリアンの体を引っ張り、宙に浮かせたまま外に引き摺り出した。
コンスタンツェの瞳の奥に、紫の文字が一瞬見えた。
その瞬間、窓の外から、ロミィがコンスタンツェに向かって指を鳴らす音がした。
「催眠を解くわ!コンスタンツェ!」
それだけ聞こえると、ロミィと長椅子とジュリアンの姿は見えなくなった。
「大丈夫ですか?」
フェリクス殿下の落ち着いた声が私の耳元で不意にして、私は飛び上がった。
王族にずっと体を支えさせてしまった。
「殿下、申し訳ございません……!」
私は平謝りして、体を自分で立て直した。
「全ては私に近寄るための奇策だったということなの?」
私はフェリクス殿下の顔を見上げて言った。
「それは分かりません。私が来たのは、別件なので」
彼はそう言って、私に涼やかな笑顔を向けた。




