77. 女性の恨みをバカにするものではございませんわ
私はすっと前に出た。
エリオットに近づく。
「こんばんは。エミリア、コンスタンツェ。こちらの方は?」
アリスが、私を見て、わざと驚いた声を上げた。
「これはこれは、皇女様」
「皇女……?」
エリオットの顔色が変わった。
「エリオット様。皇女である私の前で、もう一度お答えください。その指輪をコンスタンツェへ贈ったことも、結婚を約束したこともないとおっしゃるのですね?」
「もちろんです。彼女が勝手に奪ったのです」
「あなたは先ほど、コンスタンツェに小指用に差し上げたとおっしゃいました。どちらが嘘なのかしら」
「……」
「スペンサーの名にかけて、誓えますか?」
エリオットは一瞬黙った。だが、周囲の視線に耐えきれなくなったように胸を張った。
「誓います。私はあの指輪を贈っていない」
「術式顕現」
青白い文字列が、エリオットと指輪を取り囲んだ。
「ザックリードハルト皇女ロミィが、この誓約の証人となります。誓約を守るものよ——その真偽を示して」
エリオットがたじろいで後ずさった。
指輪から伸びた黒い文字列が、エリオットの指先へ絡みついた。
贈り主を示す術式だった。
ブン、と式魔が大きく羽ばたいた。
その羽音に重なって、私の袖口で小さなものが動いた。
白い小荷物のようなものが、ころりと卓上へ転がり落ちた。
「……スピカ?」
白いハリネズミの銀針が、一斉に逆立った。
他の卓の客には、何も見えていないようだった。
銀針が指輪の黒い石を貫いた。
式魔の羽が空中へ縫い留められ、黒い文字列となって崩れていく。
最後に指輪が、乾いた音を立てて割れた。
「うっ、なんだこれは……」
エリオットがうめいた。
コンスタンツェが、わっと泣き出した。
エミリアは黙ってハンカチを差し出した。
「明日は九時半よ。泣き腫らした顔で寝台列車に乗るつもり?」
「あなた、今、命拾いしましたよ。女性の恨みをバカにするものではございませんわ」
スペンサー伯爵の母君が厳しい声でエリオットに言った。
「あなたが、わたくしの孫である可能性は認めます。ですが、スペンサー伯爵家の血を引くことと、爵位を継ぐ資格があることは別です。血筋は確かめます。ですが、コンスタンツェ嬢にしたことは、それとは別に責任を取っていただきます」
スペンサー伯爵の母君は続けた。
「あなたは、今度お母様を連れて私の元を訪ねていらっしゃい。今日はお帰りなさい。私の孫かもしれないのだから、きちんと確かめましょう」
「私の孫かもしれないのだから」という言葉に胸を打たれた表情になり、エリオットの顔から、初めて芝居が抜けた。
ここは退散した方がいいと思ったのだろう。
エリオットは、黙ってグランド・ダイニングから帰って行った。
スペンサー伯爵の母君の手には、エリオットが渡したロケットが残されていた。
「これを私が持っている限り、必ず彼は私を訪ねてくるでしょう」
そう母君はつぶやいた。
「さあ、みなさん、お腹がすいたでしょ。食事をしましょう。明日、エミリア嬢とコンスタンツェ嬢はレスパーニュに向けて出発なのですから、ちゃんと食べて、早めに帰りましょう」
スペンサー伯爵の母君は給仕に合図をした。給仕が急いでやってきて、注文を聞き始めた。
私も自分の席に戻りかけた。
スペンサー伯爵の母君はすぐにアリスの元に行った。
「アリス」
スペンサー伯爵の母君が、まだ手にしていたロケットを差し出した。
「こちらを見て」
アリスは怯えるようにロケットをのぞき込んだ。
エロディの写真と並んで、一人の若い男性が写っていた。
震える指で、裏を返す。
「……『エロディへ。いつまでも私を忘れぬように。フレデリック・スペンサー、パリ』」
「……フレデリック」
「ええ。ロバートではないわ」
アリスの膝から、力が抜けた。
「ロバートは……私を裏切っていなかったのですね」
「裏切っていません」
母君はアリスの背に手を置いたまま、誰も近寄らせなかった。
私はふっと息を吐いて、席に戻った。女官長は言った。
「こんな騒ぎに皇女が巻き込まれるのはいけません。お店を続けたいなら、ほどほどになさってください」
私とイヴォンヌとカイは首をすくめた。
女官長は、メニューから目を上げなかった。
「ところで殿下。あちらのブレンジャー子爵令嬢は、スペンサー伯爵家と古いお付き合いがおありなの?」
アリスとスペンサー伯爵の母君は、まだ動かなかった。
私は、答えられなかった。




