72. その指輪のことよ
◆**ロミィ視点**◆
私たちの店を開いて、ひと月ほど経った頃のことだ。
皇女である私が店頭に立つのも、すっかり日常になっていた。銀色のインクを入れたペンを置いて、私はエプロンを整えた。
「カランコロン」
扉の鈴が鳴り、反射的に私たちは声を揃えて言った。
「いらっしゃいませ」
けれど、そこに立っていた令嬢を見た途端、妙な間が生まれた。
レスパーニュのエミリア・デ・アルバ公爵令嬢だった。その後ろには、コンスタンツェ・フォン・アルテンハイム男爵令嬢も控えている。
二人とも、ひどく気まずそうな顔をしていた。
「あの……明日、レスパーニュに帰るの。最後にどうしてもあなたと話がしたくて」
エミリアは私の目をまっすぐに見て、そう言った。
コンスタンツェは、カイの姿を見るなり、瞳いっぱいに涙をためてすがるような視線を送っている。
「ちょっと、そういうのはもうやめるんでしょっ」
エミリアに腕を引っ張られて、コンスタンツェはハッと我に返った様子で、うつむいた。
「えぇ、きっぱりとやめるつもりですわ」
そう小さく答えてから、彼女は私に向き直った。
「本当にごめんなさい。カイのことが好きで、好きでたまらなくて……私は、してはいけないことに手を染めました。反省しています」
アッシュブロンドの髪は美しく整えられていた。けれど、手元のハンカチだけは、何度も握り締めたのだろう。すっかり皺だらけになっている。
私はそんな彼女の様子を見て、小さく頷いた。
「お話は座って伺います。どうぞ、こちらへ。今日のデザートはショコラケーキです」
私はイヴォンヌに目配せをして、窓辺の広い席に二人を案内した。何を相談しに来たにせよ、全員が腰を落ち着けて話せる場所のほうがいい。
この二人の相談事は――いや、特にコンスタンツェの相談事は、ろくでもない話である可能性が高いからだ。
席に着こうとした彼女の手が、窓から差し込む光を横切った。
その瞬間、薬指にはめられた指輪が、ひどく冷たい光を放った。ただの新しい指輪のはずなのに、なぜか目を離してはいけないような気がした。
カイがショコラケーキを、イヴォンヌがお茶を運んできた。
「まず召し上がって。甘いものがあったほうが、苦い話もしやすいでしょうから」
私は二人の会話が聞こえるカウンターの内側へ戻った。フリッツとスピカは、いつでも飛び出せるよう身構えている。
「故郷への旅のお供に、コンスタンツェが来てくれることになったのよ」
そう言いながら、エミリアは一口ショコラケーキを食べると、口元をほころばせた。
「とっても美味しいわ!」
コンスタンツェの方は相変わらず独特だった。
「私たちの失恋はさぞ面白かったでしょうね?」
そう言いながら、お茶をすすっている。
イヴォンヌが私に目配せをした。彼女の目がコンスタンツェの新しい指輪に釘付けだ。きらりと光るダイヤの指輪だ。
「ねぇ、その指輪は誰にもらったの?」
エミリアが唇の端についたショコラを上品にナプキンで拭いて、お茶を飲みながら、さりげなくコンスタンツェに聞いた。
「お父様よ」
コンスタンツェは「そんなのあなたに関係ないでしょ」と言いたげな、それ以上聞くのは許さないわといった態度でエミリアに言った。私は彼女の言葉を信じる気にはなれなかった。
「そう。お母様のお下がりということかしら?でも、真新しいわよね?」
「もう、一体なんなの……」
コンスタンツェの声に棘があった。
「だって、あなた、私の帰国の旅に一緒に付き添ってくれるんでしょう?」
「そうよ。レスパーニュに行ってみたかったのもあるわ」
コンスタンツェは、指輪を隠すようにハンカチをかぶせた。
「それより、明日の列車は何時に出るの?」
あからさまな話題の変更だったが、エミリアはひとまず追及をやめた。
「明日九時半の列車に乗るから、八時過ぎには馬車で寮を発つわ。パリを出て、ブルゴーニュからリヨン方面へ向かい、ローヌ川沿いを南下するの。一日半の鉄道旅よ?食堂車でも寝台車でも、ずっと顔を合わせることになるのよ」
「あら、アッシュクロフト領もそんなものだったわよ?私はカイのご実家に滞在したのよ」
途端に、エミリアが鼻に皺を寄せた。
「あなた、そのマウントを取るのはやめて。あなたもカイに振られたのよ。それを常に忘れないで!」
エミリアはイライラとし始めた。
「私のしたことは最悪だったわ。でも、あなたのしたことも最悪だったと聞いているのよ」
二人の令嬢は険悪な雰囲気になった。
「今さら、何が言いたいの?」
「カイのことではないわ」
エミリアの視線が、コンスタンツェの薬指へ落ちた。ハンカチで隠された指輪だ。
「その指輪の男のことよ」




