71. 【アリス視点】あなたを捨てると決めた私が、本当の私よ
「あなたは、私が自由気ままに振る舞う女であればよかったと言うの?」
アメリアは涙をこぼしながらポールに尋ねた。
ポールの申し訳ない程度に下半身をシーツで隠したままの姿は、ダビデ像のように鍛え上げられており、こんな場面ですら堂々と自信に満ちた彼の姿に、私は内心憤慨していた。
「そうだ。君はいつも俺に合わせている。怯えた顔で頷きながら、本心だけは決して見せない。嘘をついているのは君も同じだ!」
「そんな……」
アメリアは絶望した表情を浮かべて唇を噛み締めた。
一糸纏わぬ浮気相手のセリーナは、アメリアとポールのやり取りを固唾を飲んで見守っている。
「アメリア」
ポールが、低い声で名前を呼んだ。
いつもの声だったのだと思う。婚約した日から、この声で呼ばれるたびに、アメリアは頷いてきたと言っていたあの声だ。
アメリアの肩が、びくりと震えた。
彼女は、胸を押さえて、一歩、後ずさった。
「アメリア。こっちへ来い。話せば分かる」
裸の夫が、アメリアに腕を差し伸べた。この状況に私は反吐が出そうだった。私が我慢できずに、アメリアの夫に平手打ちを喰らわそうとしたその時。
アメリアの唇が、いつものように「はい」の形に開きかけた。
それから、閉じた。
「……いいえ」
小さな声だった。けれど、はっきりと聞こえた。
アメリアは顔を上げた。
「いいえ。もう、あなたの言うことは聞きません」
次の瞬間、アメリアの手が、ポールの頬を激しく打った。ポールの顔はみるみる真っ赤に腫れ上がった。彼は頬を押さえてうずくまった。
「私が臆病だったことと、あなたが私を裏切ったことを一緒にしないで!」
そして、アメリアは、ベッドの上のセリーナへ向き直った。夫の浮気相手にきっぱりと言った。セリーナの自信に満ちた裸体はもう、見る影もなく、縮こまっていた。
「服を着て、お帰りなさい。この人が独身だと聞かされていたのなら、あなたを責めるつもりはありません」
セリーナは何も答えなかった。
「でも、あなたは毎日、私の家の庭で働いていたわ。使用人たちがこの人を『若旦那様』と呼ぶのも聞いていたはずです。知らなかったとは言わせません」
セリーナは青ざめ、目を伏せた。否定はしなかった。
「すべて承知していたのなら——二度と公爵家の敷地へ足を踏み入れないことです」
一糸纏わぬセリーナはシーツを身体に巻きつけながら、慌てて衣服をかき集めた。そのまま部屋から出て行こうとしたが、ドアの前で振り返った。
震える声で、セリーナは言った。
「若旦那様だと存じておりました。初めは、ただの憧れだったのです…でも、声をかけられて、本当に好きになってしまったのです」
セリーナはシーツを握り締め、俯いた。
「私のような女でも、好きな人に選ばれることがあるのだと思いたかったのです。でも、自分の望みを通すために、あなたを傷つけていいはずはなかった。奥様がいると知りながら応じたのは、私の過ちです…本当に申し訳ありません」
アメリアは答えなかった。黙っていた。
セリーナも、許してもらえるとは思っていなかったのだろう。衣服を慌てて抱え、みっともなく身を屈めて静かに部屋を出ていった。
アメリアはもう一度、夫を見た。
「自由気ままな私が見たかったのでしょう?」
アメリアは涙を拭った。
「なら、よく見て」
アメリアははっきりと言った。美しいアメリアの顔に毅然とした覚悟のような表情が加わり、今まで見たこともない厳かな顔だった。
「あなたを捨てると決めた私が、本当の私よ」
彼女は堂々と背を伸ばした。
その姿には、相変わらずボッティチェリのヴィーナスを思わせる危うい美しさがあった。しかし、強烈な力強さもあった。
「あなたが私を愛していたことは信じるわ」
ポールが顔を上げた。
「なら、待って……」
「待てないわ。あなたの愛し方では、私は決して幸せになれないから。別れるわ。さようなら」
アメリアは指輪を外して、ポールに投げつけた。
「いたっ!」
ポールの裸体にダイヤの指輪が激しく当たり、ポールは身を縮めた。
「愛されていたから許さなければならないなんて、誰が決めたの?私は決して許さないわ!二度と私の目の前に現れないで」
アメリアが足早に出て行き、扉が激しく閉まった。
残された私は、ポールと二人だけになった。私が誰だか分かっていない様子のポールに向き合った。
「婚約契約書は私も見たわ。夫の裏切りの場合、公爵が譲渡した鉄道会社株式は剥奪されない。でも他は全て剥奪よ。アメリアの離縁したい気持ちは本気のようだから」
私は静かに告げた。頭の中では亡くなったスペンサーに会いたい気持ちでいっぱいだった。
目の前のこんな男は男の風上にも置けない。人として最低だ。
「この場はアメリアとの記念の特別な部屋だったのでしょう?そして、公爵家の家宝の羽ペンを利用しましたね?この羽ペンは、禁制魔具の私的使用として、王立魔術博物館館長代理の権限で押収します」
彼はハッとした表情になり、ベッドの脇の椅子にかけられていたスーツのポケットから羽ペンを取り出して、私に差し出した。
「彼女を愛しているんだ」
その途端に、帰ったはずのフリッツが飛び出してきて、ポールの頭に飛び乗り、ポールの髪の毛を引っ張った。
「痛いっ!痛いって!やめろっ!」
私は鼻で笑ってしまった。
「あなたの口先だけの愛なんて、そんなの知らないわよ。あなたの責任でしでかしたことでしょう?女を甘く見過ぎないことね」
私はそれだけ伝え、嘘の羽ペンを手に、ブルー・スイートを後にした。
『スペンサーは、決してこんな裏切りを私にしなかった』と思いながら。
私はその日、泣きはらした目をしたアメリアを公爵家まで送った。アメリアは両親に毅然とした様子で、ポールとの離縁の意志を固めたと伝え、家宝の羽ペンが裏切りの密会の手段に使われた経緯も話した。
ギャベンディッシュ公爵の怒りは凄まじかった。
私はギャベンディッシュ夫妻に丁重に礼を言われ、その場を後にした。
アメリアの離縁は確定し、浮気男のポールは公爵家を追い出された。
結局、ポールは、公爵家から与えられた地位を完全に失った。鉄道会社の株式だけは、引き続き保有していたが。
当のアメリアは意外な才能を発揮した。
ものを片付けるのが得意だった彼女は、広大な公爵家の領地経営において、適材適所に人や物を配置できる才能があることを証明し始めた。
アメリアは「夫に捨てられた妻」ではなかった。
「自ら夫を捨てた妻」、「自分で人生を選び直した女性」として、もう一度社交界に颯爽と戻ってきたのだ。
「自分の意思で決めて前に進むことがどれほど大切なことか学べたのよ」
アメリアはそう言って、離縁を失敗ではないと笑い飛ばしているそうだ。この夏、ギャベンディッシュ公爵家の造園業者は変わったそうだ。
そんな噂を風の便りに私は聞いて、今日も「蜂蜜菓子と銀のインク・ベルンシュタイン」の店に向かっている。
アメリアの話を聞くたび、私は、自分がまだスペンサー伯爵家へ行けずにいることを思い知らされた。
「カランコロン」
「いらっしゃいませ!」
私はスペンサーが大好きだった温かいホットチョコレートもどきの飲み物をまた頼んだ。
スペンサーが好きだった味だけれど、それはもう、私自身の好きな味でもある。
これを飲み終えたら、スペンサー伯爵家へ行こう。
スペンサーのお母様——私の義母に、会いに行こう。
書類が一枚もなくても、あの家で生きた二十三年を、私は嘘にはしない。




