70. 【アリス視点】ブルー・スイートの裏切り
あまりのことに言葉も出ない。
「その羽ペンなら、『争いに巻き込まれたときのみ用いよ。偽りを私欲に使えば、害された者の異議申し立てによって名は暴かれる』というルールだ。アメリア夫人が申し立てれば偽名が暴かれる」
フリッツが腕組みをして言った。
アメリアは私の隣で拳を握りしめて、青ざめてプルプルと震えていたが、意を決したように宿泊客受付窓口に向かい、威厳を込めて伝えた。
「宿泊名簿を見せてくださる?我が夫であるギャベンディッシュがこちらに滞在しているはずなの」
スッと宿泊名簿が差し出され、その上にアメリアが手を置いて宣言した。
「この名によって、私の夫と、私の家の名誉と、私の思い出が奪われた。私はこの偽りに異議を申し立てます」
すると琥珀色の光が文字の下を走り、偽名がひび割れるように薄れ、その下からポール自身の筆跡が浮かび上がった。
P——
公爵家の紋章
ブルー・スイート
下から文字が浮き出てきたのだ。
ジェームズ・ハートリー夫妻と書かれた下に、ポール・オーギュスト・ギャベンディッシュとセリーナ・プライスの文字が現れた。
ポールとセリーナこと、ハートリー夫妻の滞在している部屋は、最上階の角部屋のブルー・スイートだった。
アメリアは苦しげに胸を抑えた。
「私たちが結婚式直後に宿泊したスイートと同じです」
彼女が消え入りそうな声でそう言うのを聞いて、私ははらわたが煮えくり返りそうになった。
「ここから先は来なくていいわ、フリッツ。私とアメリアでなんとかするから帰っていいから」
私は早口にそうフリッツに伝え、アメリアの腕をそっと抱えて昇降機の方に向かった。ホテル側にも動きがあり、急ぎ支配人が呼ばれた。
「階段で行きたいわ。二人にいきなり遭遇したら嫌だもの」
アメリアは弱々しくそう私にささやいた。私は小さく頷いた。今、アメリアが受けている衝撃は私には想像もつかない。だが、もはや、浮気は確定的だろう。
私は最上階の廊下にアメリアを待たせて、そろそろとブルー・スイートのドアまで進んだ。禁制魔具の不正使用が確認されたため、ホテルの支配人と警備員が同行していた。
支配人が非常鍵でスイートの扉を開け、支配人と警備員は廊下で待った。
最初、部屋には誰もいないと思った。寝室にもいない。
だが、声が聞こえた。
浴室に向かう内扉は、指二本ほど開いていた。最高級のスイートなので、浴室付きだったのだ。
浴槽の中から、ポールらしき低い声と、女の笑い声がした。反響して、意味深な囁きになっている。聞くまでもなかった。
昼間、公爵家の温室で聞いたのと同じ、低く勝ち気な笑い声だった。
私は音も立てずに後退した。
——これ以上は、踏み込めない。
心臓が早鐘のように鳴り、アメリアを連れて来なければと思った。だが、彼女に夫の真実と対峙させるのは、勇気が必要だった。
私はブルー・スイートを出て戻っている間、亡くなったスペンサーに心の中で呼びかけた。
——私はどうすべきなのかしら?あなた?
「アメリア、ここで引き返しても、私が証言するわ」
私はアメリアに伝えた。だが、彼女は決して引き返す気はないようだった。
「この目で見て、夫に離縁を告げます」
彼女は震えていたが、固い決意を滲ませる眼差しで、私を見返した。
私も頷き、覚悟を決めた。アメリアを連れて部屋に戻ったとき、浴室はもう空だった。灰色に濁った湯に、海綿が一つ浮いている。床には二人分の濡れた足跡があり、寝室へ続いていた。
——私が迷っている間に。
その時、壁の向こうでベッドが軋む音がした。
一度、間を置いて、もう一度激しく軋み出した。女の声が寝室から漏れ出てきている。
そして女が、掠れた声でポールの名を呼んだ。
次の瞬間、アメリアは寝室のドアを開けて、部屋に足を踏み込んでいた。私は彼女を止めるすべもなく、呆然と彼女の後からついて入った。
二人が、シーツの中で振り返った。
アメリアは、何も言わなかった。
ただ、見ていた。
「一体なんだっ!あぁっこれは……その……」
ポールはしどろもどろで何かを言いかけた。
「信じていたのに!」
「君は、俺の何を信じていた?」
「あなたを愛そうとしていたのよ。それなのに、どうして……」
「君は俺に怯え、何を言っても従う。それでは面白くない」
開き直ったかのようなポールは、隣でシーツを体に巻きつけたセリーナを見た。
「彼女は俺の手に負えない。気まぐれで、俺の命令など聞きもしない。だから惹かれた」




