66. 【アリス視点】嘘のない婚約契約書
◆**アリス視点**◆
「カランコロン」
「いらっしゃいませ」
明るい声で迎え入れられて店内を見渡すと、イヴォンヌとカイの二人がスタッフとして働いていた。
驚かれながらも大歓迎を受けた私は、店の奥に案内された。イヴォンヌがいそいそと苺のトルテとホットチョコレートを運んできてくれた。
底の方にとろりとしたホットチョコレートがあり、真ん中は濃いコーヒーで、上の方に冷たい乳脂肪分の高いクリームが乗ったこの飲み物が大好きだ。夫のスペンサー伯爵がイタリアですっかりハマり、気に入っていたのだ。
店には既に二組の客があり、スピカが忙しく働いていた。フリッツも腕組みをしてポーズをとりながら、手伝っていた。
カイが相手をしているのが、アメリア・ギャベンディッシュだ。ギャベンディッシュ公爵の一人娘だ。彼女が赤ん坊の頃から私は知っていたが、スペンサー伯爵夫人時代のことなので、そっと見守るだけにしていた。
イヴォンヌが相手をしているのは、少しくたびれたスーツを着た老紳士で、不動産投資に危うく騙されるところだったのを、スピカの針が反応し、契約書に偽りがあることが発覚した。老紳士が涙ながらに感謝していた。
スピカがあんまり得意げなので、フリッツが引きずるようにして、老紳士のテーブルからスピカを引き上げさせた。
どうやら、カイはまた腕をあげたようだ。私の目の前にはデザートの苺のトルテが運ばれてきた。
銀の台に載せられてきた苺のトルテは、白いクリームの上を深紅の実で埋め尽くされていて、温室育ちの苺は中心から花弁のように幾重にも並び、粉砂糖が朝霜のように薄く降りていた。
フォークを入れると、淡い黄金色のビスキュイの間から、砂糖で潰した苺の果肉が赤い汁を滲ませ、冷たいクリームはまだ柔らかかった。口に運ぶと、最初に熟した苺の酸味が立ち、そのあとから卵とバターの穏やかな甘み、濃い乳脂肪の味が追ってきた。
私はカイに『美味しい!』とジェスチャーで伝えた。先日十六歳になったカイは、金縁丸メガネをかけて変装して店に出ている。
しかし、変装にも関わらず、カイ目当ての客がやたらと来るようになり、どうしたものかと悩んでいると聞いていた。ロミィも十六歳になり、二人合同の誕生日パーティを計画しているようだ。ロミィはカイ目当てにやってくる店の客にいい思いはしていないはずだ。私とカイとロミィは誕生日が接近していたわけだ。みんな一気に一歳歳を取った。
その時、アメリアがカイに話している声が聞こえてきた。
アメリアは婿入りの夫を迎えたばかりだったはずだ。愛されて仕方がないといった若い妻のはずが、結婚して三ヶ月の新妻の状態で、この店に駆け込んできたようだ。アメリアは十八歳で、最近十六歳になったカイたちより二歳年上だ。
「この婚約契約書と婚約指輪、結婚指輪を全て見ていただきたいのです」
アメリアは銀のお盆の上に、書類と二つの指輪を置いていた。
「婚約した頃から、私は自分の意思とは違う行動をしてしまうのです。これは、何かあるのではないかと思っておりまして、是非見ていただきたいのです」
早速、スピカが呼ばれてやってきて、銀のお盆に乗せられた書類と指輪に鼻をひくつかせた。
「まず、婚約契約書を見せてもらう」
スピカの針は一本も反応しなかった。
「この契約書に嘘はない。次に、婚約指輪を見る。オイラの目には古い服従魔術の刻印らしきものがあるように見えるけれど……」
スピカは首を傾げた。
「私は、婚約した頃から、夫のポールに名前を呼ばれると動悸がして、何でも承諾してしまうのです。ポールが夫になってからも同じなのです」
アメリアは不安を口にした。彼女の夫の名前は、ポール・オーギュストだ。古い地方貴族の次男だ。
だが、スピカの針は1本も立たなかった。
「鑑定結果は白だ。刻印は服従魔術ではなく、身につけた者の体温に反応して、宝石の曇りを防ぐ古い装飾術にすぎない。結婚指輪にも、婚約指輪にも、婚約契約書にも怪しいものは一つもない」
スピカはそう言って、眠そうに目を閉じかけた。
「……では、なぜ?」
アメリアは震える声で聞き返した。誰も何も言わなかった。
私ははたで聞いていてホッとしたが、アメリアの様子に胸が痛かった。別れたいと思っても、今の時代はそう簡単には離縁できない。婚約契約書には、不利な条件がある。
「ごめんなさいっ!う……」
突然、アメリアが泣き出した。




