63. その上は、いつも晴れ
幸せの形は、本当は人それぞれなのだ。
ずっと、好きな人に好かれて、婚約して、結婚することだけが、幸せの形なのだと思い込んでいた。
だから、ジュリアンに婚約を破棄されたと思った時、私は心を病んでしまった。幸せへの扉は、あの婚約契約書の一枚しかないと信じていたから。
でも、それだけが幸せじゃないとしたら?
もっと違う幸せがあるとしたら?
今の私は、その答えをいくつも知っている。
ゴーニュ門通りの小さな店で、誰かの温かい記憶を聞くこと。
イヴォンヌと言い合いながら、帳簿をつけること。
カルメンの手帳と、リゼットの扇と、アリスの銀の紋章。
フリッツとスピカの、どうしようもない喧嘩。
それから、空を飛ぶこと。
どれも、誰かに選ばれなくても、私が自分の手で見つけた幸せだ。
カイは、その中の一つ。
いちばん大切な、一つ。
だから、もし明日、何かを失ったとしても、私はもう部屋に閉じこもらない。
私は空を旋回した。
雨雲が遠くに見えるが、ザックリードハルトの皇都の空は、晴れている。
私の隣に、婚約者のカイが座っている。
青い空を、長椅子が滑るように進んでいく。
十三歳で婚約破棄されて、二年も部屋に引きこもった。
十五歳で生卵をぶつけられて、霊獣を呼び出して、窓から落ちて、学院一のスターに「婚約したい」と言われた。
十六歳で、皇都に、自分の店を持った。
——とんでもない一年だった。
正直に言うと、今でも少し怖い。
丸眼鏡をかけたカイを目当てに、店へ令嬢たちが押しかけてくるたび、胸がざわつくし、三度目の婚約破棄なんて、もう絶対に嫌だ。
カイを独り占めしたい。でも、店主としては、それではダメ。
何があっても、部屋には閉じこもらない。
あの頃の私は、婚約がなくなったら、自分には何も残らないと思っていた。否定された、と思い込んでいた。
回り道をしても、自分の足で戻ってこられれば、それでいいのかもしれない。
魔力を持っているからといって、幸せになれるとは限らない。
幸せは、全然別のものだ。
カイも魔力を買っている。
それでも、カイの焼き菓子にも、エスルお姉様の包装紙と同じ輝きがある。
魔力を持たないカイの焼き菓子は、人の心を、ほんの少しほぐしてくれる不思議な魔法だ。その一瞬の幸福が、人を窮地から引き戻すことを、私は知っている。
エミリアは、レスパーニュへ帰る前に、最後に一度だけ、ちゃんと私の目を見て謝ってくれた。
カルメンの手帳には、最近、アダム兄様の名前がやたらと増えている。リゼットがそう教えてくれた。
ジュリアンは、私に会わせてほしいとは、一度も言わなかったらしい。
ゴーニュ門通りの小さな店は、開いてもうすぐ二月になる。お茶と、カイの蜂蜜菓子と、契約書を読む店は人気の店になりつつある。
かつての私のように、部屋の中で周りが見えなくなった人が、扉を叩いてくれたらいい。
青い空を、長椅子が滑るように進んでいく。
本当の自分に、いつも満足できるとは限らないし、外へ出ても、また何かにつまずくかもしれない。
それでも、自分を信じて前へ進めば、ほんの小さなきっかけから、自分を大切にできる未来が始まることもある。
私は、二年前の経験を糧にして、ここまで来たのだから。
眼下には紅葉した木々が広がり、ザックリードハルトの秋を告げる黄金菊が、公園の小径を縁取るように咲き誇っている。
幾重にも重なった花びらが陽光を受け、金貨を一面に撒いたようにきらめいている。
その輝きは、黄金色の並木の間を抜け、噴水を囲み、丘の向こうまで続いていた。
風が吹くたび、色づいた葉が空へ舞い上がる。黄、琥珀、赤銅……そのすべてが、もう一度溶かされて黄金へ戻っていくようだった。
私は胸元に手を当てた。
願いを込めて。
今朝、皇宮のテラスの鉢で、ローズマリーが小さな青い花をつけていた。花言葉は「思い出」。
二年後の秋、私はカイの花嫁になる。
十三歳の私に、教えてあげたい。
あなたの婚約契約書は、いつか本物になるわ、と。
何か起きて、雨が降って、雪が降っても、雲の上に上がれば、晴れている。
見方を変えれば、常に救いがある。
雨の日も、雪の日も、その上へ行けばいい。
私は、その行き方をきっと知っている。
本編(完)
お読みいただきまして、本当にありがとうございました!感謝申し上げます。
番外編を公開しています。




