60. 記録上は、一時間二十分ですわ
ものすごい勢いで、モンフォールの間の扉が叩かれて、カルメンとリゼットが息を弾ませて入ってきた。
「大丈夫でしょうか?」
「何か先ほどから尋常ではない光がこの塔の部屋から漏れていたのですが!」
慌てて飛び込んできたカルメンとリゼットに、私たちは事情を説明した。
カルメンは話を聞きながら、猛烈な勢いで手帳にメモしていた。
「記録によりますと」
カルメンが手帳を開いた。
「午前、婚約発表。午後四時十二分、婚約破棄。それから今日のうちに再契約ですよね?」
カルメンはカイに詰め寄るようにして言った。
カイは大きく頷き、我に返ったように話し出した。
「俺は、アッシュクロフト領の父にテレグラフを打ってくる!ロミィ、飛ぶ長椅子で、モンフォール伯爵領の伯爵をイヴォンヌと一緒に連れて来れるか?カルメンとリゼットは馬車で皇宮に知らせてくれ。何とか今日か明日には父が来れないか、ディアーナ皇太子妃に打診する。もう、皇太子妃はすっかりよくなったと聞いているんだ」
カイはそれだけ言うと、私たちの返事も聞かずに、モンフォールの間を飛び出して行った。
「承知しましたわ。リゼット、急いで行きましょう!」
「えぇ、皇宮なんて、私も初めてですが」
リゼットも扇をパタリと閉じて言った。
「待って!私も行くわ!」
アリス・ブレンジャーもカルメンとリゼットに声をかけ、三人がモンフォールの間を飛び出して行った。
「ロミィ、モンフォール伯爵領までひとっ飛びできる?」
イヴォンヌは、やる気に満ちた表情で私を見た。
「できるわよ。でも、今日に再契約なんて、本当にできるのかしら?」
「できるわ!一度全部準備を整えたのよ。もう一度やるなら即座に動けるわよ!」
そんなわけで、私は飛ぶ長椅子にイヴォンヌと一緒に飛び乗った。フリッツとスピカも両肩に飛び乗り、長椅子は女学院のモンフォールの間の窓を飛び出した。
一時間後には、書類の山を抱えたモンフォール伯爵を連れて、私はザックリードハルトの皇宮の上空にいた。
「婚約打診書、婚約協議書、婚約条約、婚約契約書が飛んでしまうではないか!イヴォンヌ、フリッツ、スピカ、しっかり抑えてくれ!」
空の旅の間、私の叔父でもあるモンフォール伯爵は、道中、書類が風にあおられそうになり、娘であるイヴォンヌとフリッツとスピカに泣きついた。全員で書類を押さえながら、長椅子で空を滑空してきたのだ。
私たちが皇宮の庭に着地した時、ちょうど皇宮の門から、息を切らしたカイが駆け込んできた。
「テレグラフが間に合ったよ!」
その瞬間、八芒星が地面に現れて、ディアーナ姉様とルイ兄様、アッシュクロフト当主、それにカイのお祖母様まで現れた。お祖母様は蜂蜜菓子を抱えていた。
「まぁ、ロミィ、カイ!こんなことになって、またすぐに会えて本当に嬉しいわ」
お祖母様はお祭り騒ぎのような状態に浮かれた様子で、私たちに駆け寄ってきた。
ディアーナ姉様の頬は薔薇色に輝き、ルイ兄様と一緒に、にっこり笑って私を見た。大きく頷いてくれた。
「前は、皇帝陛下にご挨拶もせずに婚約を決めてしまった。色々な事件にかまけて、順番を間違えたのは私どもだ。今度はきちんとお会いして、ご挨拶をしてから結ぼう」
アッシュクロフト当主は私たち二人に言って、にっこりとした。
そこに、皇帝である父が姿を現した。カイの元に真っ直ぐに歩いてきた父は、カイに向かい合った。
「娘は、婚約で二度泣いた」
皇帝である父は、カイを見下ろした。
「三度目は、ないな?」
カイは、まっすぐに見返した。
「一度目は、他の男でした。二度目は、偽の手紙が原因です」
それから、私の手を取った。
「二度目は、俺たちが人を救うために選びました。俺が彼女を捨てたことは一度もありません」
父は、しばらく黙っていた。
それから、ふっと口の端を上げた。
「……生意気だな」
「よく言われます」
皇宮の広間に一番乗りしたカルメンとリゼットを出迎えたのは、アダム兄様だったようだ。
カルメンに後から聞いたのだが、アダム兄様は顔色を変えた様子でカルメンに聞いたらしい。
「妹に、何かあったのか」
カルメンは手帳を開いた。
「記録によりますと、本日午前、婚約発表。午後四時十二分、婚約破棄。本日中に再婚約することを目指して、まもなく、関係者全員がこちらへ集まります」
アダム兄様は、しばらくぽかんとしていた。
それから、吹き出した。
窓の外の雲が、ふわりと兎の形に変わった。
カルメンのペンが、止まった。
「……今のは、殿下が?」
「笑うと、たまにこうなるんだ」
カルメンは、手帳に何か書きかけて、やめた。
頬が、ほんの少しだけ赤かったと、リゼットがこっそり教えてくれた。
今も私たちの隣で、リゼットが扇を広げた。
「あら、カルメン。記録の手が、止まっていますわよ」
カルメンは真っ赤になって、アダム兄様から目をそらし、手帳にメモを取り始めた。
その日のうちに私たちの婚約は再び締結され、正式に成立した。
スピカの銀針は一本も立たなかった。
最後に、カイはカルメンに記録を訂正された。
「カイ様は、破棄の時は一分とおっしゃいましたわね?」
カルメンが、カイを見上げた。
「記録上は、一時間二十分ですわ」
「……誤差だ」
ザックリードハルトの空に星が瞬く頃、私たちは賑やかな夕食会に興じ、それぞれの幸せを噛み締めていた。
ブレンジャー子爵夫妻の無事は既に伝えられており、夜遅くに金の紋章を私はカイと一緒に取りに行き、ブレンジャー子爵邸に返しに行った。
母の兄である、私の叔父が住む家は、あの頃とちっとも変わらずに、ブレンジャー子爵邸の隣にあった。
アリスと私が落ちた、あの池はもう無かったが。
「ロミィ、店の準備を明日から始めよう」
皇宮の部屋の前まで送ってくれたカイに私は囁かれ、頷いた。
幸せだった。
胸の奥に、昨日まで以上の大きな温かさがあった。
幸せは、一人ではなれないのかもしれない。
みんなで掴みに行くものなのかもしれない。
その夜、ベッドに入って目を閉じると、夕食会の陰で交わした、アリスとの短い会話がよみがえった。
賑やかな笑い声の向こうで、二十一歳の姿に戻ったアリスは、私にそっと囁いたのだ。
「ロミィ。今度、私が生きた二十三年の話を、聞いてくれるかしら?」
彼女は、スペンサー伯爵夫人の目で静かに笑った。
「一八六四年、あの池から這い上がった日から話すわ」
「私のお店で待っているわ、アリス」
私たちは、誰にも気づかれないように、そっとグラスを鳴らした。
——アリスの二十三年を、今度聞かせてもらおう。
温かな気持ちのまま、私は眠りに落ちた。




