60. 嘘だったのは、今度は破棄の方だ
この世で一番強い呪文は、母の願いの呪文だ。
雲の形を兎に変えられなかったあの夏、私は大切なものをもらった。
「アリスと私は、ずっと幸せに生きるのよ」
私はその呪文を唱えた。
空の雲は兎に変わらず、雷が轟くような音で、トロイメライのピアノの音が鳴った。
四歳だったから、音量が分からなかったのかもしれない。
兎の形の湯気が、銀のポットから勢いよく立ち上がり、フリッツとスピカは腰を抜かしたようにひっくり返った。
つきものが落ちたような表情のアリスがそこにいた。
アリスは、自分の手をじっと見つめた。
「だ……大丈夫だわ」
もう一度、確かめるように、イヴォンヌに歩み寄った。ライラックのドレスを着たイヴォンヌは思わず後ずさった。
「だ、大丈夫よ、何もしないから」
アリスが言うたびに、イヴォンヌは怯えて後ずさった。
結局、アリスはイヴォンヌを抱きしめた。イヴォンヌは大人しくされるがままになり、ほっと安堵の表情を浮かべた。
イヴォンヌを殺せという命令は消えた。でも、二十三年を抱えたアリスのままだ。
次は、アリス・ブレンジャーの二十一歳の誕生日を実現する時だ。
四十歳を超えたアリスを、知見や記憶はそのままに、二十一歳のお誕生日に戻すのだ。
「さあ、アリス、宣言してちょうだい」
私はボディスの中から銀の紋章を取り出して、アリスに渡した。
「持っていてくれてありがとう」
アリス・ブレンジャーは、驚きと懐かしさが同時に押し寄せた様子で私に言った。
「行くわよ」
カイは私と手を繋いだ。私たちは顔を見つめ合って、頷いた。
「ここに宣言する!」
「ちょっと待って!」
アリスが私たちを止めた。
「だめよ。私の二十三年のために、二人が別れるなんて」
「俺たちの婚約は、終わっても結び直せる。でも、あなたが生きた二十三年は、消えたら二度と結び直せない」
「婚約破棄は嫌よ。でも、アリスのこれからの人生を消すのはもっと嫌」
「これは教授に別れさせられるんじゃない。俺たちがアリスを連れ戻すために、奴の仕掛けを使うんだ」
カイの言葉に、私は頷いた。
「嫉妬で扉を作ったのがコンスタンツェでしょ。その扉を罠に変えたのが教授。私たちは、その罠を、今度はアリス救済に利用させてもらうわ。やらせて欲しい。教授の思惑なんか、吹き飛ばしたいのよ」
アリスは黙って頷いた。
そして、銀の紋章の上に指を置いた。
私は頷いて、深呼吸した後、一気に言った。
「私、ロミィ・ロクセンハンナは、カイ・アッシュクロフトとの婚約を破棄します」
「カイ・アッシュクロフトは、ロミィ・ロクセンハンナとの婚約を破棄する!」
カイは、私の手を握ったまま言った。
それから、私にだけ聞こえる声で付け足した。
「一分だけな」
続けて、アリスが宣言した。
「私、アリス・ブレンジャーは、当該婚約破棄の承認を館長代理としての最後の職務とし、その完了をもって辞任する」
轟音と共に突風がモンフォールの間に吹き込んだ。
ロクセンハンナ皇家とアッシュクロフト侯爵家の間の婚約契約書が舞い込み、粉々に引き裂かれて、モンフォールの間の天井からハラハラと落ちてきた。
魔力をもって、婚約破棄が定義づけられたのだ。
もう、ひっくり返しようがない。
スピカは、悲しげに「二度もこの場面を見るのは嫌だ」と呟いた。
フリッツが「それ以上言うな、スピカ」とだけ制した。
目の前のアリス・ブレンジャーは四十代前半ぐらいの年齢から、急激に若返り始めた。ぐるぐるとアリスの周りで風が舞い始め、アリスの姿が見えないほどに渦を巻き始めた。スペンサー伯爵夫人として着ていた黒いドレスに施されていた金の刺繍が帯のように舞っているように見えた。
渦がおさまり、アリスが姿を現した。駅で別れたままのアリス・ブレンジャーの姿に戻っていた。黒髪に深い緑の瞳はそのままに。
「覚えている?」
「ええ。全部覚えているわ。スペンサーのことも、ディアーナのことも覚えているわ」
アリスは全部覚えていた。
私たちは泣きながら抱き合った。
九歳と四歳の夏の冒険が、こんな形を生むとは、当時の私たちには想像もできなかった。
モンフォールの間に夕陽が差し込んだ。
まだ、婚約契約書の破片が、ゆっくりと舞っている。
二年前も、こうして紙が舞っていた。
燃える破片の中に、ヴェイン家の紋章が見えた。
あの日、私は何が起きたのか、分からなかった。
最初の私の婚約契約書は、嘘だった。
一枚の破片が、私の手のひらに落ちた。
アッシュクロフト家の蜂の紋章と、私の名前が、半分ずつ残っていた。
今度は違う。
破れたこの紙は、本物で、嘘なのは、破棄の方だ。
皇帝である父も、ルイ兄様も、ディアーナ姉様も、アダム兄様も、みんなひっくり返るだろう。
二度も婚約が破談になった皇女なんて、誰も見向きもしないだろう。
胸のうちを正直に言うなら、悲しかった。
今日の昼には、婚約ほやほやだったのに、今は、婚約が破談された惨めな皇女に逆戻りだ。
ウジウジしない、私!
今出ている涙は、アリスの無事を喜ぶ涙。
泣くな。
アリスが元に戻るなら、それでいい。
私は溢れる涙を拭って、アリスの肩に顔を埋めてまた泣いた。
「ロミィ。まだ、もう一つ大事なことが残っている」
私はカイに囁かれ、アリスから優しく体を離された。
「……え?」
頬にもう一度キスをされた。
私は、手のひらの破片を見せた。
「私の婚約契約書は、嘘だったのと同じになっちゃった」
カイは破片を受け取り、自分の上着の胸ポケットにしまった。
「いや」
それから、私の手を取った。
「君も分かっているように、嘘だったのは、今度は破棄の方だ」
カイはブルーの瞳で射抜くように私を見た。その目は、ふっと優しい眼差しに変わった。
「もう一度、俺と婚約してくれるか?」
私は一瞬言葉に詰まった。
やっとの思いで、言葉を振り絞った。
「待って。今度は私から言いたいの」
「今の私は、誰の婚約者でもないわ。だから、自分で選ぶわ」
私は涙を拭った。
「カイ、もう一度、私の婚約者になってくれる?」
「喜んで。——でも俺にも言わせて。ロミィ、二年後、俺の妻になって」
「えぇ。あなたの妻になりたいわ」
途端に、イヴォンヌの雄叫びのような声が、モンフォールの間の窓から外にまで聞こえるほどの音量で上がった。
「さあ、そう来なくっちゃ!忙しくなるわ。モンフォール伯爵家は喜んで、総力をあげて婚約を取りまとめてみせますわ!」
イヴォンヌはきっとした表情で霊獣二匹を見た。
「フリッツ!スピカ!忙しくなるわよ」
なんで俺たちが?という顔をする二匹に、イヴォンヌの喝が飛んだ。
「おやつをたっぷりあげるから、主の三度目の婚約成立に魔力を全力で役立てなさい!」
「どっちが主だよ?」
「自分に魔力がないからって、俺たちをこき使うなよ…」
二匹の霊獣がイヴォンヌに抗議する声が聞こえた。
「俺の未来を予約した、婚約者さん」
カイが耳元で囁いて、私は真っ赤になった。
二匹の抗議も、イヴォンヌの号令も、私の耳にはもう聞こえない。
「ロミィと俺の店も、すぐに出そう」
私はカイの顔を見上げた。きらきらと輝く瞳が私を見つめている。
——私のひとりの店ではなく?
——カイと私の店?
私は頷いた。泣きながら。
その時、モンフォールの間の扉が、ものすごい勢いで叩かれた。




