59. 離さなければ、言えなかったから
私はふうっと息を吐いた。これから提案することは、覚悟がいることだ。
「アリス・ブレンジャーとして、人生を全うしたいでしょう?エミリアに使った呪文なら、あなたは二十一歳に戻れる。でも、この二十三年の記憶が全部消えるわ。エミリアは、七十年ずっと一人ぼっちだったと言っているわ」
フリッツが視界の端で首を振っている。
——分かっているわ。
「過去に戻ってからの全ての記憶を失って、ずっとひとりぼっちだったという感覚だけが残るの。あなたがスペンサー伯爵と結婚したことや、ディアーナ姉様を可愛がった記憶も消えるわ」
アリスは、困ったという顔をした。
手の震えはまだ続いているようだ。
「本来の姿に戻って、館長代理から、館長になる夢を叶える人生を全うしたいわ。でも、夫を愛したことも、ディアーナを抱きしめたことも、なかったことにはしたくない」
私の胸がチクリとした。
「記憶を失わずに、あなたを元の姿に戻す方法は一つだけあるわ」
切なくて胸が痛い。
カイと繋いでいた手をそっと離した。
離さなければ、言えなかったから。
「このコンスタンツェの手紙を、最後まで実現させるの」
カイは無言だった。
私は、隣にいる彼を見られなかった。
「その代わり——私たちは、本当に婚約を破棄しなければならないわ」
「手紙のとおりにすれば、記憶は残ったまま、身体だけが二十一歳に戻る。手紙が『二十一歳のアリス』と書いているからだね?」
カイが静かに言った。
「……そうよ」
もう一度、イヴォンヌが黄ばんだ手紙を読み上げた。
「封筒の表には、こう書かれているわ。
——王立魔術博物館 館長代理 アリス・ブレンジャー様
中の手紙を読むわね。
ロミィへ
君を愛している。けれど、俺たちは別れなければならない。
一八八七年七月二日、聖セレスティーヌ女学院モンフォールの間で待つ。そこで、婚約を破棄しよう。
カイ・アッシュクロフト
——付記——
同日、二十一歳の誕生日を迎えるアリス・ブレンジャーは、館長代理としての最後の職務として本婚約破棄を承認し、その完了をもって職を辞する。
証人コンスタンツェ・フォン・アルテンハイム(男爵家印章)」
「今日は二十一歳のアリスの誕生日で間違いないね?」
カイがアリスに確認し、アリスが小さく頷いた。
「何なのこれ……!モブの願望は本当に手に負えないわ。めちゃくちゃだわ!それに、コンスタンツェが、なんでアリスの誕生日を知ってるのよ」
イヴォンヌはイライラした様子で手紙をもう一度読み、呆れて肩をすくめた。
「アッシュクロフト領地への行きの寝台列車で、私が話したのよ。帰ったら、すぐ二十一歳の誕生日だって」
アリスが答えた。
「あぁ、全く!教授は、歪んだ願望を持つ人を探し出す天才ではあるわね」
イヴォンヌの口は容赦しないようだ。
フリッツとスピカも頷いて同意を示している。
「二十一歳のアリス・ブレンジャーの誕生日を、実現すれば、あなたは二十一歳に戻れるわ。そして、私たちの婚約破棄も実現する」
私は静かに言った。
胸の奥がチクリとするのを無視した。
私はもう、十三歳ではない。
「あなたを無性に殺したくなる呪いは何かしら?」
アリスが真顔でイヴォンヌに聞いた。
イヴォンヌは腹立たしそうな表情をした。
「教授は、イヴォンヌを消したがってた。ヴェイン家から証拠を持ち出したのは、イヴォンヌだからな」
カイが言った。スピカが大きく頷いた。
「そのおかげで、ジュリアンの記憶にまで手が届いた。教授からすると、イヴォンヌが危険だから、この世から消したいんだろ」
フリッツも腕組みをして、物騒なことを言った。
「たとえ、自分の署名が無効化されても式魔なら、仕事を全うしようとするからな。教授がこの世から消えても、式魔が動いているんだろう」
フリッツの言葉で、アリスが不意に思い出したように言った。
「あ!そういえば、昨日、実家に戻った時、蜂の姿の式魔がいたのよ。教授に追いかけられて逃げ惑う時に、蜂に刺されたような痛みを感じたの。その時、確かに猛烈な殺意のようなものを感じた気がするわ……」
頭の中でトロイメライの曲が響く。
四歳の夏だ。
あのトロイメライのピアノの音色は、私の記憶を開く鍵にもなっている。
回り回って、あなたの計画を台無しにすることをあなたは仕込んだのよ。
私は心の中で教授に言った。
たった一つだけ、教授が読み違えたことがある。
四歳のあの日、私が仕込んだ時限爆弾を、見せてあげるわ。
私はあの日、アダム兄様がアリスに教わった呪文が羨ましくて、こっそり真似した。
私は見たモノを完璧に覚えてしまう力がある。四歳のあの日、地面に枝切れで書いた。どうしても、雲の形を兎に出来なかったから。
私の記憶は、特にお母ちゃまが絡んだら、ピカイチだった。
アリスと私はずっと幸せに生きる。
二年、引きこもった私は、もう、あなたの思惑通りにはならないわよ。
四歳の私が仕込んだ呪文を、十五歳の私が唱えるのだ。
あの特別な呪文。
ずっと幸せに生きてねと願う母の思いを呪文に閉じ込めた。
それを今から唱えよう。
怖くなかった。
——お母ちゃま、見ていて。




