58. 四歳の私が仕込んだ、強烈な『ざまぁ』?
「えぇ、私の父はブレンジャー子爵で、私の名前はアリス・ブレンジャーよ」
その直後、ピアノの音がパタっと止まった。
嗚咽が漏れた。
アリス・スペンサー伯爵夫人から。
「なんてこと。ロミィ、イヴォンヌ、カイ、今全て思い出したわ!」
アリスは号泣した。
「二十三年間、本当の名前を誰にも言えなかった。夫にも、ディアーナにも、私の中に別の人生があることを話せなかった。私の心の病の原因が分かったわ。私は本当の自分に戻りたかったのよ。私はアリス・ブレンジャーで、アリス・スペンサーでもあった。どちらも私だったのね」
思い出したと言うより、中に隠れていたアリス自身が出てきたかのような言葉だった。
「イヴォンヌ、本当にさっきはごめんなさい」
アリスは正気を取り戻したかのようになり、イヴォンヌに心から謝った。そして、話し始めた。表情が生き生きとしてきている。
「寝台列車を降りて、実家のブレンジャー子爵家へ戻ったの。そしたら、マックスがいたのよ。彼、私の父の金の紋章を探し回って、屋敷中の引き出しを開けていたわ。母と父はまだ縛り上げられているかもしれない」
その言葉を聞いて、イヴォンヌは、モンフォールの間の呼び鈴を三度鳴らした。銀のポットと菓子皿を載せた棚が上がってくる代わりに、モンフォール家のメイドが慌てて姿を現した。
「至急、ブレンジャー子爵家に使いの者をやってちょうだい。子爵夫妻がまだ捕らわれている可能性があるから、大至急よ。うちの残っている魔力は全部使っていいと皆に言って頂戴」
メイドは急いで階段を駆け降りて行った。アリスは安堵したようにため息をついた。
「私は、子供の頃にピアノを教えてもらったクロルブリと、マックスが同一人物だと初めて分かったの」
アリスの言葉に、私たちはみじろぎもせずに聞き入った。
「私、父の金の紋章の置き場所を知っていたの。だから、マックスに奪われる前に、父の金の紋章をつかんで窓から逃げたの。必死に必死に逃げた私は、教授に二階の窓から突き落とされたの」
——あぁ、ここで救済ポケットが発動したのね。
イヴォンヌが私の方を見て頷いた。
「私は死んだと思ったわ。でも……あぁ、何てこと!」
アリスは私をハッとして見つめた。
アリスの中で、何もかもが、一本の線になり始めている。
「雲を兎に変えたあの日、隣の子爵の家に来ていた四歳のロミィはあなたなのね?全て繋がったわ!」
アリスはようやくあの夏の思い出の意味が分かり始めたようだ。
「そうよ、アリス。私もさっき思い出したのよ。私たちは、子供の頃に一緒に一八六四年に行ったわ」
「あなたの十七歳のお母ちゃまに会った日と同じことが私に起きたの……一緒に落ちたあの池にまた落ちたのよ。あの時の魔法の何かが、教授に突き落とされた私を救ってくれたのね……」
アリスは涙声で言って、私をギュッと抱きしめてくれた。
「池に落ちたあとは、自分が誰だか分からなくなっていた。記憶が全て消えていて、池からすぐに這い出たわ。そして、そのまま通りに出たのよ。だって、自分が誰かも分からないし、奇妙な男が私と一緒に池に落ちていて、怖かったから」
空気が一変した。
アリスですら、自分で話した言葉に衝撃を受けたようで、口に手を当てて、目を見張った。記憶を手繰り寄せるように、どこか遠くを見る目で眉を顰めている。
「あの時、私と同じ池に落ちた男が確かにいたわ。ヘーゼルの瞳にダークブロンドの髪の男…」
「それは、教授もあなたと一緒に過去に移動したということじゃないかしら?」
イヴォンヌが言った。
——教授も過去に移動させられたの?
——四歳の私の作った救済ポケットは……教授にとっては……地獄を作ったのかしら。
一瞬、地獄であったことを願う自分がいた。
「ざまぁ」
イヴォンヌが小声で小さく呟いたのを私たちは聞いた。
意味が分からなかったけれど、してやったりということだろうか。
「よく分からなかったけれど、ブランドン公爵という名前だけは頭にあって、その日のうちにブランドン公爵に助けを求めたのよ。先代のブランドン公爵は私を助けてくれたわ」
アリスは急に黙り込んだ。しばらく沈黙した。
私たちはアリスのギョッとした様子が怖くて、これ以上何が出てくるのかと思って黙り込んだ。
「だから、あの時」
アリスはそう言ったきり、口元を押さえて黙り込んだ。
「スペンサー伯爵に私が嫁いだ日、花嫁衣装を着た私を男が襲ったのよ」
背筋が冷たくなった。
花嫁衣装。結婚式。
思わず、自分の手を握りしめた。
その手を、カイの手が包んだ。
「大丈夫だ」
私にだけ聞こえる声だった。
「君の結婚式は、俺が守る」
私が驚いてカイの顔を見上げると、小さくカイが頷いた。
——まだ決まってもいない、二年後の話……?
アリスは話し続けた。
「結局、夫のスペンサーが守ってくれた。夫も怪我をしたけれど、襲った男は捕らえられて留置場に入れられたのよ。そして、後から死んだと聞かされたわ」
私たちは一言も口をきけなかった。
「それは……?」
イヴォンヌが沈黙に耐えられずに、アリスに聞いた。私たちが想像したものと、一致するのか答え合わせが今すぐにしたい。
「今から思えばだけれど、私を襲った男は、ヘーゼルの瞳にダークブロンドの髪をした、教授の顔立ちと瓜二つだったわ」
霊獣フリッツと、スピカは、イヴォンヌの膝の上でひっくり返って、落ちかけた。
「……もう、この世にいないのか!?」
スピカが、ぽつりと言った。
教授は人知れず、名前も知られずに、魔力も持たない普通の人に捕らえられ、普通の警吏に留置所に入れられて死んだ?
——犯人はいなくなっていて、残っているのは、コンスタンツェが書いた紙と、蜂だけだわ。
「その人の遺体は見たの?」
「いいえ」
では、まだ生死は分からない部分がある。
イヴォンヌと私は顔を見合わせた。
でも、イヴォンヌは希望に賭けることにしたようだ。
「四歳のロミィが仕込んだ無邪気な救済ポケットが、強烈な『ざまぁ』を実現してしまったのよ」
イヴォンヌは言った。
——はっきりしているのは、敵の呪いが生きているということ。
「私が身につけていた鞄の中にあったのは、紅や白粉の他に、よく分からない金の紋章とコンスタンツェの署名のある手紙だけだったの。手紙はアッシュクロフト領から戻ったら、家に届いていたものよ。金の紋章は、なぜかとても大事なものに思えて、私の兄になった現ブランドン公爵が建ててくれた私の家に隠したわ」
その言葉に、皆が固まった。
——昨日、王立魔術博物館の金の紋章が消えたことまでは知らなかったわ。
——あの砂漠の家……アリス・スペンサー邸宅。
——私が十一歳で匿われた家。
——赤い花が一輪も咲かなかった、あの家に、教授が奪えなかった金の紋章がずっと眠っていたなんて。
私は何もない砂漠を思い浮かべた。
——今、この瞬間は、金の紋章はまだあの家にある。
ふと、窓の外で、かすかな羽音がした。
モンフォールの間の窓の桟に、蜂が一匹とまっていた。




