57. トロイメライを弾いてくださる?
夫人が古いピアノを見つめている間に、私は四歳の夏に起きたことを、カイとイヴォンヌたちへ短く説明した。
「それって、四歳のあなたが、アリスのためにも救済ポケットを作っていたってことじゃないかしら。だって、エミリアの時も、水が出現してあなたたちを救ったでしょ?」
声を潜めたイヴォンヌにそう言われた。
——救済ポケットって何…?
「落下して、本来ならば死ぬところだった。でも、救済されるためにポケットのような場所に一瞬落ちて、死なないために時空を移動しているのよ。だって、一八六四年ならば、ブレンジャー子爵邸のその場所に池があったんでしょう?アリスはきっと救済ポケットを使ったのよ」
四歳のあの日、自分とアリスのために私はその救済ポケットを作って、自分たちが死ぬのを避けたとしたら、辻褄は合うのかもしれない。
大人になったアリスが、昨日、ブレンジャー子爵邸の同じ窓から落下するような事件が起きたとすれば、だが。
私はピアノの鍵盤に指を這わせようとしているアリスにそっと声をかけた。
「スペンサー伯爵夫人、ピアノを弾けますか?」
私の顔は、カイにキスをされた余韻でまだ顔が真っ赤に火照っていた。でも、今は、アリスに集中しなければならない。
「えぇ、なぜか私は昔からピアノが弾けたのよね」
「ぜひ、お聞きしてみたいですわ」
私はアリスをピアノの前の椅子に優しく座らせた。
お茶を飲んで、だいぶ落ち着いてきた様子のアリスは、指をさするようにして、ピアノの前に座った。
「昨日、急にこうなったのよ。預けたものを取り戻しに行かなきゃとか、手が勝手に動くとか。さっきはあなたに悪いことをしたわ。本当に申し訳ないわ」
アリスはイヴォンヌに謝りながら、ピアノの前の椅子に座った。
「何かリクエストはあるかしら?」
アリスに聞かれて、私は咄嗟に答えていた。
「トロイメライを弾いてくださる?」
カイが私の腰に手を回し、私たちはダンスのポーズを取った。イヴォンヌとフリッツとスピカの眼差しは優しかった。さっきの合同ダンスクラスの意地悪令嬢たちとは段違いに優しい眼差しで、私とカイを見守ってくれている。
最初の一音が鳴った。
アリスは息を止めた。
そして、その指が止まった。
でも手は、次の和音を探して鍵盤の上を動いている。
「……この曲、誰に教わったのかしら。なぜか私は弾けるようだわ。でも、ここ二十数年で初めて弾いたと思うのよね」
それから、トロイメライがゆっくりと流れ出した。
その曲に合わせて、私はそっとカイに抱き寄せられた。私たちは踊り始めた。
——切ない。
婚約破棄を命じる手紙が、すぐそばに置かれているのに、私たちはお互いの愛を確かめた。
何が起きるか分かっているのに、私の気持ちは昂り、振り子のように揺れる。
それでもカイにリードされて踊るのが嬉しいと思ってしまう。心が甘く切なく、震える。
アリスの歌うような声が聞こえ始めた。
弾きながら、彼女は語り始めた。
「昔ね、隣の家の子爵が住んでいてね、ある日、子爵の姪っ子がやってきて、私、呪文を教えたのよ。彼はすぐに習得して、雲の形を兎の形に変えたのよ。あれは……不思議な日だったのよ。四歳の姪っ子は「お母ちゃまに会った」と言うんだけど、落ちたら、なかったはずの池ができていて、隣の家には見たことのない人がいて……飛ぶ長椅子が出てきてね……」
気づけば、アリスがアッシュクロフト領地で聞いたのと同じ記憶の話をしていた。
私に呪文を教えて、アダム兄様が雲の形を兎に変えた話だ。
——アリス、戻ってきているわ!
思わず、私の手を握るカイの手にグッと力が入った。私たちは見つめあって、頷きあった。
フリッツとスピカは、イヴォンヌのドレスの両膝にちょこんと乗って、イヴォンヌと一緒に、期待のこもった眼差しで見ている。
「うちに、よく尋ねてくるお兄様がいてね。クロルブリって変わった名前の人で、ピアノを教えてくれたのよ。お父様はお祖父様から引き継いで、王立魔術博物館の館長になったばかりで、そのクロルブリって人は、お父様に修行させて欲しいと頼みに来ていたの」
スピカがギョッとしたような表情になって、一瞬歯を剥き出しにした。
——そう。
——人生を壊した男が教えた曲が、アリスを取り戻すのね。
皮肉だ。
——教授、見てる?
「あなたのお父様は誰?」
「えぇ、私の父はブレンジャー子爵で、私の名前はアリス・ブレンジャーよ」




