56. 見せてるんだ——手紙を書いた奴にも届くくらいに
◆**ロミィ視点**◆
モンフォールの間へ向かう渡り廊下を、カイは私の手を握ったまま歩いた。
指を絡めて、離さなかった。
「放して。皆が見ているわ」
「見せてる」
前を歩くイヴォンヌが、振り返らずに咳払いをした。
少し後ろを、スペンサー伯爵夫人が、まだ震える手を胸元で押さえながらついてくる。その足元を、スピカがぴたりと見張っていた。
フリッツが私の肩から、カイの肩へ跳び移った。声をひそめる。
「カイ、後ろの伯爵夫人だがな。昨日まで俺たちといたアリス・ブレンジャーだ」
「……は?」
「さっきのあの手紙を持ったまま、一八六四年へ落ちた。そこで二十三年生きて、今日ここへ現れた」
フリッツはそこで、ちらりとイヴォンヌの背中を見た。
本当は、もっと別の言い方をしたかったのだろう。さっき訂正させられたから、きちんと言葉を選んだらしい。
カイは一度だけ振り返って、伯爵夫人の顔を見た。
エメラルドの瞳。
黒と若草色のドレス。
それから、カイは前を向いた。
「分かった」
「分かったのか?」
「全部は分からない。でも、ロミィがそうだと信じているなら、それで十分だ」
握られた手に、少しだけ力がこもった。
***
モンフォールの間には、古いピアノがあった。
窓辺のテーブルには、カイが並べた蜂蜜菓子と、まだ温かいポットが置いてあった。
カイがこの部屋で待つという筋書きは、すでに外れている。
それでも結局、手紙に名を挙げられた全員がここへそろってしまった。
「どうぞ、伯爵夫人」
カイは椅子を引いて、スペンサー伯爵夫人を座らせた。自分でお茶を注ぎ、蜂蜜菓子の皿をそっと前へ置く。それから、私の椅子の後ろに立った。
私と夫人のあいだに、ちょうど半歩だけ入る位置だった。
——アリス、あの夏の記憶を、もう一度思い出してちょうだい。
私の力が本物なら、きっとアリスは大昔の記憶を思い出すはず…。
アリスは一口お茶を飲んだ。手はまだ震えているが、懸命に抑えている。
「皇女のあなたも、私の邸宅に遊びに行ったことがあると聞いたのよ。ディアーナが私の家を砂漠に移したことも聞いたわ。あの子は昔からとんでもない魔力を持っていたから、それは全然いいの」
夫人は、手紙を指で何度も撫でた。
「この手紙の日付が、今日だったの。二十年以上、この日を待っていたのよ。誰かのいたずら書きかもしれないと思いながら」
夫人は、指を折って数え始めた。
「まず、カイ・アッシュクロフトとあなたが婚約しなければならないでしょ。婚約破棄をするには、婚約が成立していないと無理でしょう?それから、ここに書かれているアリス・ブレンジャー王立魔術博物館長代理が、本当に館長代理にならなければならないのよね。その方は、とても優秀なんですってね」
——アリス、記憶が戻ったら、今のあなたのセリフを聞かせてやりたいわ。
イヴォンヌの眉が吊り上がった。
フリッツが首を振って、イヴォンヌを黙らせた。
「そして今朝、あなた達の婚約が発表された。手紙に書かれた日付になって、婚約は正式になったわ。二十年以上かかって、ようやく前提条件がそろったのよ。私はなぜかこの条件が揃ったことに興奮しているの。あとは館長代理のアリス・ブレンジャーがここに来れば、登場人物が揃うわよね。彼女は今日は来ないのかしら?」
ね?と言わんばかりに、夫人は肩をすくめて私を見た。
——アリス。
——その優秀な館長代理は、あなたよ?
あなたはもう、ここに来ているじゃない?
早く思い出して。
私は、手紙を見つめた。
ようやく、仕組みが一本の線になった。
カイの筆跡は、私を怯えさせる餌。
コンスタンツェの署名と、男爵家の印章は、偽物を本物らしく包む殻だ。
その奥で命令を動かしているのは、教授の署名だ。あの式魔が代理遂行しているとすれば、説明はつく。
教授の目的をコンスタンツェが知らなかったとしても、カイの筆跡を偽造し、私たちを別れさせようとしたのは、コンスタンツェ自身だ。嫉妬心にかられて、私たちが別れることを真剣に望んでいたコンスタンツェがこんな手紙を書いた。
そして手紙は、婚約破棄の承認に、王立魔術博物館の紋章が要ると書いている。
私は、胸元に手を当てた。
——だから、アリスはこの部屋へ来なければならなかった?
私が銀の紋章を持っていて、アリスがそれを奪えるチャンスが訪れるのを式魔は狙っているのかもしれない。
——私の心を壊して、ついでに紋章も手に入れるつもりだったのかも。
——教授は、ジュリアンの時のように、婚約破棄されたら、私がまた部屋に閉じこもると踏んだのだろう。
本当に、舐められたものだわ。
「報復の意図もあるわね」
イヴォンヌが私の手を取った。
「あの悪趣味たぬきめ……乙女の心を潰しに来る、ぶつかりおじさん的な……」
ぶつかりおじさん?
イヴォンヌのいつもの分析は、もう意味の分からない言葉として聞き流すことにしていた。
フリッツとスピカだけが、フンフンと頷いている。
——意味が分かるのですか、そこの霊獣は。
「つまり」
背後で、カイが言った。
「つまりだよ?この手紙を完成させるには、俺とロミィ双方の婚約破棄の宣言、それに館長代理の銀の紋章による術式証明が要るんだな」
カイは、私の椅子の背に両手を置いて身をかがめた。
「確認させて。この手紙のことじゃない。ロミィ自身は俺と別れたい?俺は、二年後にロミィと結婚したい」
け、結婚!?
「婚約破棄は嫌よ。私もあなたと…」
私は不意の言葉にドギマギして、言葉を続けられなかった。
カイは黄ばんだ手紙を指先で押さえた。
「この手紙は、俺たちをここまで連れてきた。けれど、俺たちの返事までは書けないんだ」
「二十三年がかりの仕掛けよ?」
「二十三年かけても、肝心の俺たちの返事は一行も書けていない。悪いな、教授」
カイは、私の手を握り直した。
「覚えておこう。ここから先、俺たちが何を選ぶことになっても、今言ったことが本心だ。結婚したいんだ」
私は真っ赤になって、言った。
「ええ。私はあなたと別れたくないわ」
カイは、私の頬にキスをした。
観客がいるのに、構わずに。
私は真っ赤になった。
イヴォンヌが両手を胸の前で組み、夢見る乙女のような顔でこちらを見ている。霊獣二匹は手に手を取り合って、瞳をきらきらさせていた。
「カイ、皆が見ているわ」
「知ってる」
カイは、もう一度私の頬にキスをした。
今度は、少しだけ長く。
「見せてるんだ。手紙を書いた奴にも届くくらいに」
胸の奥に、熱い塊が込み上げてきた。
泣きそうになって、私は慌てて唇を噛んだ。
——今は、アリスの記憶を取り戻すのが先。
——この続きは、あとで…。
「……本当は、さっき中庭で、少し怖かった」
カイが、私の耳元で囁いた。
「君が泣いているのを見た時」
そのとき、スペンサー伯爵夫人が古いピアノを見た。
「……あのピアノは…」
夫人の震える指が、ほんの少しだけ、鍵盤を叩く形に動いた。
——そうよ!
——アリス、思い出すのよ!




