55. 待ちきれなくて、迎えに来たよ
◆**ロミィ視点**◆
私は呆然としながら、イヴォンヌを立ち上がらせて、彼女の背中をさすった。
アリスは手の震えを抑えようとして、こちらを時折見ながらもがいていた。
スペンサー伯爵夫人からの手紙は、アッシュクロフト領にいる時に、既に皇宮の私宛に届いていたと聞いた。
アリス・ブレンジャー子爵令嬢は、代々王立魔術博物館の館長を務めるブレンジャー子爵の家に生まれて、まだ二十年ぐらいのはずだ……ならば、ずっとアリスが二人存在していたはずだ。二十歳以下のアリスと、二十歳以上のアリスの二人が同じ世界で生きてきたはずだ。
アリス・ブレンジャー子爵令嬢は私と一緒にアッシュクロフト領地にいた頃、スペンサー伯爵夫人になったアリスは、私に会いたいと手紙を送ってきていた。
でも、なぜ急に私に会いに来ようとしたのか?
しかも、聖セレスティーヌ女学院で会いたいとされていたのか?
その二つの点が分からない。
「今日、なぜこちらにいらしたの?」
アリスはボディスから、何かを取り出した。
「この手紙よ。ずっと若い頃からなぜか持っていたの。かれこれ二十年以上持っているわけになるけれど。私が記憶しているのは、一八六四年、先代ブランドン公爵夫妻の養女に迎えられた時には、すでに持っていたわ。不思議なことに、この手紙には未来のことが書いてあるの。ほら、ここにあるでしょう?」
黄ばんで、ところどころ赤茶けたシミのある手紙を、スペンサー伯爵夫人の顔をしたアリスは、私に差し出した。
——今、アリスは一八六四年と言ったわ。
——お母ちゃまが十七歳だった年だ。
ドキンと胸が鳴った。
彼女が胸元から取り出したのは、ひどく黄ばんだ一通だった。
私はその手紙をそっと受け取った。
文字が並んでいる。
けれど、意味にならなかった。
私の手が震えているせいだと思った。
先に分かったのは、字の形だった。
——カイの字だ。
「ロミィへ」と、そこには書いてあった。
「コンスタンツェ・フォン・アルテンハイム男爵令嬢の署名入りだわ。カイの筆跡で、一八八七年七月二日に、聖セレスティーヌ女学院のモンフォールの間に、私に来てと書いてある。これは私宛の手紙だわ」
ぼんやりと、私は口に出していた。
その年季の入った奇妙な紙切れをじっと見つめた。
一八八七年七月二日。
——今日だわ!
部屋の名前。モンフォールの間。
——今朝、スペンサー伯爵夫人を迎える場所として、決めた場所だわ。
——今朝。
——私たちは、今朝、この手紙の通りに予定を決めたのね?
——偶然!?
——これは一体、どういうこと?
——予言しているの?
手紙の中身は、こうだ。
カイが私に言っている。
***
愛している。
別れなければならない。
婚約破棄云々…。
***
——どうして…!?
——何を書いてるの?
言葉が順番に入ってこない。
三度読み返して、ようやく文章になった。
『ロミィを愛しているが、別れなければならない。俺たちは婚約破棄しよう。モンフォールの間で一八八七年七月二日に待っている、婚約破棄の承認は、王立魔術博物館長のアリス……』云々とあった。
耳の奥にドッと何かが押し寄せる音がした。
轟音が鳴り響き、頭が痛くなり、私はよろめいた。
偽物だと、頭では分かっている。
それでも。
カイの筆跡で「婚約破棄」という文字を見た瞬間、十三歳の私が、真っ先に怯えた。
——でも。
『俺が欲しいのは君だ』
『ロミィの隣はもう空いていない。俺が座ってる』
『菓子職人だけ?店主さんの夫』
本物のカイの声は、こんなふうに耳の中に残っている。
紙の上のカイは、一度も私の顔を見ていなかった。
「ロミィ、どうしたの?その手紙を私にも見せてちょうだい」
イヴォンヌが私の手からひったくるようにして古い紙切れを取った。
「何これ……あの嘘つき恋文偽造令嬢め……!コンスタンツェが記した、彼女の願望を描いた嘘の恋文だわ」
およそ、伯爵令嬢に相応しくない言葉をイヴォンヌは喚き散らした。
だが、私の耳はよく聞こえず、私はその場にへたり込んだ。
——もう、おしまいだわ。
地面に座ったまま、私は思った。
——アリスは、私が四歳の夏に行った一八六四年に、落ちたのね。
——違う。違う。
——ここには、もっととんでもないことが書いてあるでしょ。
私の頭は、私に警告している。
——ほら、よく見て!
——署名を見るのよ、ロミィ!
言葉が滑り落ちる。
首を絞められたばかりのイヴォンヌが、私の腕を掴んで引き起こした。
「立って、ロミィ」
私たちが動揺する様子を、目の前のアリスは不思議そうに見つめている。彼女の手の震えは収まっていない。
——本当にコンスタンツェの署名だった!?
「イヴォンヌ、署名をもう一度見せて」
フリッツ、スピカ、私、イヴォンヌは頭を寄せ合って、手紙の署名を確認した。
スピカの銀針が一本だけ光った。
紙の上で、コンスタンツェ・フォン・アルテンハイム男爵令嬢の署名が二重に揺らいだ。その下から、マックスの術式署名が透けて見えた。
マックス・クロルブリ・ヴェインの署名と入れ子になっている、署名だ。
——教授のやつ……!
「入れ子署名だ。外側は生きてる署名、内側は死んだ奴の魔力。……こいつは禁止術式だぜ、主」
フリッツが呆然とした様子で言った。寒いのか、やたらと両腕をさすっている。
表の実行者はコンスタンツェ。
失効前に教授が封じた魔力と命令が、その内側に隠されている。
アルテンハイム男爵の印章まで押されていた。
アリス・ブレンジャー子爵令嬢は、行きはコンスタンツェと一緒の寝台列車を使ってアッシュクロフト侯爵邸に到着した。列車内では、不特定多数の人々が彼女たちに接触できたはずだ。
——教授は、列車で魔法の器だけを仕込んだということ?
スピカは首を傾げて言った。
「署名だけ先に仕込まれていて、他の部分が書かれたのは、アッシュクロフト領に来てからだろう」
——きっと、そうだ。
私とカイの婚約をコンスタンツェが知るのは、アッシュクロフト領地に来てからだから。
「コンスタンツェは偽造文書の匂いがぷんぷんする令嬢だった。特に恋愛がらみで。オイラはカイが相手にしていないから、言わなかったけど」
「そうそう、たわいもない脇役令嬢の話だと思って私も放っておき過ぎたわ。モブのくせに……! 私、この令嬢を数えていなかった。完全に油断していたわ」
イヴォンヌが言った。
泣きたい。
教授の署名は無効化されたはずなのに、なぜか、この手紙には効力を持っているようだ。
書いてある通りに、私はスペンサー伯爵夫人の姿になったアリス・ブレンジャーを、モンフォールの間に連れて行こうとしていた。
もう夏だ。
午後の中庭の日差しは強い。小さな黄白色のリンデンの花は、緑の葉陰に隠れてほとんど見えなかったが、温めた蜂蜜のような香りがあたりに漂っていた。
私たちのすぐそばをエミリアが通りかかった。
彼女はアリスを見るなり、何か怯えた表情になり、逃げるように走って行った。
——分かるのね、エミリア?
——あなたも、時間を動かされた人だから。
アリスは怯えた表情のエミリアをチラッと見て、一瞬怯んだ。
——そう、アリス。あなたもエミリアの時空を超えさせられた影が分かるのね?
——嘘の手紙に何かを仕掛けるのは、教授なら、ありえなくもない。
私は背筋が凍るような気持ちだった。
「主、全部、この手紙の通りに動いているよな?」
私はフリッツがキョロキョロ辺りを見回しながら言うのを、呆然と聞いていた。
——そうよ。
私もそう思っている。
「まず、カイはモンフォールの間でお菓子を用意して待っているだろ?モンフォールの間だから、イヴォンヌは当然行くだろ。ロミィはこれから行く。一夜にしてババアになって現れたアリスもこれから行くんだろ?この日付に全員集合しちゃうぜ?」
「フリッツ、言い方!」
イヴォンヌがキッとした表情でフリッツをたしなめた。
「決してババアではありません!立派な伯爵夫人です、訂正しなさい!」
「悪かった、失言だ。事実でもなかった……」
イヴォンヌとフリッツの声が、どこか遠くで聞こえる。
私は上の空だった。
大好きな人のことを考えていたから。
手紙が本当なら、二度目の婚約破棄も、実現する。
——カイ……私たち婚約破棄をしなきゃいけないみたい。
私たち、結婚するのかと、思ってた。
——だって、カイが私の夫の席を予約したじゃない?
涙が溢れてきた。
教授に、負けた。
そう思った。
カイは今、モンフォールの間で、お菓子を並べているのだろう。
「遅い」
リンデンの香りの向こうから、声がした。
カイが、菓子の包みを片手に立っていた。
「モンフォールの間で待ってろと、誰かに言われた気がしたけれどね。待ちきれなくて、迎えに来たよ」
手紙では、カイはモンフォールの間で待っているはずだった。
けれど、彼は私を迎えに来た。
——手紙に書かれた未来が、一つ外れた。
カイは私の手から手紙を取り、ちらりと目を走らせて、鼻で笑った。
「俺の字を真似るなら、もっと下手に書け」
それから、私の頬についた涙を、親指で優しくそっと拭った。甘い笑顔を私に向けた。
「それに、俺が君に『愛してる』と伝えるなら、紙になんか書かない」
顔を近づけて、私にだけ聞こえる声で言った。
「顔を見て、言う」
カイに引き寄せられた。
「ロミィ、愛してる」
カイに甘いキスをされた。
彼から、焼きたての蜂蜜菓子の甘い香りがした。
唇が離れたとき、私はカイの上着の胸元を、ぎゅっと握っていた。
「……私も」
声が震えた。それでも、顔を上げた。
「私も、カイを愛してる。紙じゃなくて、顔を見て言うわ」




