52. いつもの朝に
パン屋の朝は早い。朝六時の空気は澄み切っている。ゴーニュの森で朝の散歩——ではなく、飛ぶ長椅子で皇都の空を飛んだ後、私はある評判のパン屋の前に降り立った。
今日の朝食は、皇宮のパン職人が焼いたパンではなく、街のパン屋さんで買ったパンを食べよう。朝市や労働者のために朝早くから焼き立てのパンやヴィエノワズリーを並べているのだ。
肩につかまっていた霊獣フリッツと霊獣スピカに、外で待っていてと囁くと、不服そうな顔をしたが、承知した。
「主、急げよ。今日は新聞の一面に主がでかでかと載っているはずなんだから」
「オイラ、鼻が高いよ。魔法網の復旧に貢献と出ているよ。オイラのこともチラッと出ていた」
そうだ。事件の一端が明るみに出て、教授が二年前の婚約破棄事件で何をしたのか、霊獣ハリネズミが皇女を守ったことも記事になっていたのだ。
それは昨日までの記事で、今日はさらにカイとの婚約が発表になる日だ。ディアーナ姉様は療養のため、ルイ兄様や執事のレイトンたちと一緒にアッシュクロフト領に残っていた。
霊獣二匹は、のんびりとパン屋の前の道で物陰に隠れて待っていてくれている。
カランコロンと扉の鐘が鳴った。
「おはようございます」
「おはよう、パンは全部焼き上がっているよ!」
パン屋のおかみさんに元気よく言われて、私は微笑んだ。誰も私が皇女だとは気づかない。
無心で好きなパンを選び、お金を払ってパン屋を出てきた。すぐさま霊獣二匹が私の肩に乗り、私は飛ぶ長椅子を呼び、飛び乗って皇宮まで飛行した。
空の上で食べる焼きたてのパンは格別だ。
「そうだ、今日は砂漠の家の持ち主の伯爵夫人に会うんだったな」
フリッツが何か気になる様子で言った。ブランドン公爵家のディアーナ姉様からすると、叔母にあたる方だ。姉様は敷地内にあった叔母の家を砂漠に移したと聞いている。
——叔母様は、それをご存じなのかしら?
「えぇ、女学院で会いたいと言われたから、モンフォールの間に通すことにイヴォンヌと決めているのよ。その時に出すもてなしのお菓子はカイが持ってきてくれることになっているわ」
青空の下、眼下にどこまでも広がる皇都を眺めながら、パンを頬張った。
さあ、今日一日は、久しぶりの女学院への登校日だ。今日、婚約が発表される。そして今日、エミリアに会う。
——順番が、逆ならよかったのに。
「主、まだ教授の行方は分からないんだろ?」
「そうよ。アリスが追っていたけれど、昨日から連絡がないのよ」
私は少し心配しながら言った。アリス・ブレンジャー子爵令嬢は王立魔術博物館の次期館長に決定している。毎日テレグラフで連絡を取り合うと決めていたのに、昨日は連絡がなかった。
***聖セレスティーヌ女学院***
聖セレスティーヌ女学院の朝の喧騒は、変わらない。馬車で貴族令嬢たちが次々にやってきて、お弁当を入れたバスケットと書類鞄を手に校内に入っていく。
だが、今日は皇女が帰ってきた日だ。
とても大きな発表があった。それは新聞の一面を飾ったビッグニュースで、令嬢たちは朝からその話を友達令嬢たちとしたくてたまらなかった様子で、馬車から降りてくる知り合いを見つけるたびに手をあげ、顔を合わせるなり、口々に話していた。
「カイ・アッシュクロフト様とロミィ皇女がご婚約ですって!」
皆が知っているロミィ・ロクセンハンナは謎めいていて、十三歳の時に婚約破棄されて以来ずっと引きこもっていて、この春に復帰するなり、執拗ないじめにあっていたはずだ。
少し太めの彼女がだんだん健康的になったと話す令嬢もいれば、最後に会った二週間前の事件の日、カイがロミィを追いかけていたと話す令嬢もいた。
ザックリードハルトの皇都リードミンスターのリードヴェイル地区には、聖セレスティーヌ女学院やセント・エントン王立学院がある。皇都の二つの名門学院には、身分とは別に、人気と噂で決まる独自の序列があった。
二週間前までトップに君臨していたのは、レスパーニュの王家に次ぐ格式を誇るアルバ公爵家の令嬢だった。レスパーニュ王国屈指の大貴族のエミリア・デ・アルバだ。しかし、二週間前の事件からエミリア嬢はすっかり人が変わったようになった。
隣接するセント・エントン王立学院のスターは、ヴァイセンブルク帝国のアッシュクロフト侯爵家の令息であるカイ・アッシュクロフトだ。それは今も変わらない。帝国最大の大地主で、その領地収入は、時としてヴァイセンブルク皇帝個人の収入さえ凌駕するといわれている。それだけではない。彼は非常に眉目秀麗で、一時期のアルベルト王太子並みの人気になると囁かれていた。
つまり、大陸を横断する人気者がカイで、そのカイが、皇女ロミィとの婚約を正式に発表したのだから大騒ぎというわけだ。
皇女ロミィが最下位から一位に躍り出た——少なくとも、女学院の令嬢たちはそう判断した。
当のロミィ皇女は、皇家の紋章のついた馬車で登校してきた。彼女が馬車から降り立つと、一気に彼女に視線が集まった。
多少ぎこちない様子で、皇女ロミィは微かな笑みを浮かべると、書類鞄を手に颯爽と校内に入って行った。
「待って!ロミィ!」
後ろからモンフォール伯爵令嬢のイヴォンヌが追いかけて行った。二人は従姉妹だ。王立魔術小学校以来の二人の様子に、貴族令嬢たちは既視感を覚えながら、校内に入って行った。
午後の合同ダンスクラスは、とんでもない騒ぎになりそうだ。
カイ・アッシュクロフトが久しぶりにやってくるのだから。二週間、ロミィ皇女と一緒にアッシュクロフト領内に戻っていたが、一緒に皇都に戻ってきたという話だ。
「あぁ、またあのお顔を拝めると思うと、午後が待ち遠しいですわ」
「本当に。人様の婚約者になったとはいえ、婚約は婚約ですし……」
「また、破棄なんてことになるかもしれませんしねぇ……」
その言葉を、誰もすぐには否定できなかった。
けれど、その答えを知るカイ本人が、午後には女学院へやってくる。
「あなた、不謹慎よ。今日発表になったばかりなのに」
「だって、前回も早かったですから。婚約発表になりそうという噂の直後には、破棄されていましたわ」
「それはそうだけれど」
一人の貴族令嬢の意見に、周囲の令嬢は黙った。




