48. 世界の魔法を閉じて、元婚約者の記憶を開きに行きます
「では、進めます」
五つの王権印が、私の周囲に浮かび上がった。
病院は予備魔力へ。鉄道信号は手動へ。封印施設には術者と兵士が配置された。もう、先延ばしにする理由は残されていない。
それでも、声が震えた。
「万象閉門」
音はしなかった。
目の前に広がっていた青い魔法網が、中心から順番に暗くなった。街灯が消え、走っていた魔力郵便が止まり、遠くの塔から一つ、また一つと光が失われていく。
誰かが息を飲んだ。
次の瞬間、世界から、絶えず鳴っていた魔法の低い唸りが消えた。
——いや。
暗くなった魔法網の中に、一本だけ、青紫色の細い線が残っていた。都市が闇に沈んだため、その光はかえって鮮明に見えた。
すべて閉じたはずなのに、消えていない。
「これは魔法網の一部ではありません。外部から接続された、隠し回線です!」
アリスの声が飛んだ。
青紫色の線が、逃げる生き物のように魔法網の端へ走った。
逃がさない。
「術式遮断!」
青紫色の線が大きく震え、白く灼けたかと思うと、中央から音もなく断ち切れた。
五つの王権印が裏返り、閉門の紋へ変わった。再び五つの承認がそろうまで、魔法網は誰にも開けない。
供給魔力が消えたあとに残ったのは、普通の炎の音、人間の息遣い、遠くを走る蒸気機関車の汽笛だけだった。
***《万象閉門》から数時間後。東の空が青み始めたころ***
魔法網を失った街の上を、飛ぶ長椅子が進んでいた。青空を背に、沈黙した街の上をゆっくり旋回する。眼下には、魔法の灯を失った街と、夜を越してなお燃えている蝋燭の火が見えた。
風の音が耳元でうるさい。
「古式・術式顕現」
街の上に、消えた魔法網の残像が薄く浮かんだ。網へ根を張っていた赤い花は、魔力を失い、端から黒く萎れている。
ぶつぶつとつぶやく私の右肩にはフリッツがつかまり、左肩にはスピカがつかまっていた。
街の魔法はすべて消えた。
けれど、私の長椅子は落ちなかった。
フリッツもスピカも、私の肩にいる。
私たちの魔法は、あの網から与えられたものではない。人間が世界に網を張るよりも前から存在していた、古い魔法だった。
「主、赤い花が枯れていくな」
「うん、どんどん消えていく」
フリッツが小さな声で囁いた。
「あの教授の本名を突き止めて、博物館にある術式署名と照合しない限り、署名鍵を失効させられない。今のまま魔法網を再開すれば、同じ裏口がまた開くんだろ?」
「そうよ。だから、教授の署名鍵を失効させ、その署名を持つ術式をすべて封印対象として登録しなければならないの。でも、書類からは名前が消されている。関係者の記憶も削られていたわ。どうやって調べるかが問題なのよ」
フリッツが一瞬ためらった後に口を開いた。
「主、方法が一つだけある」
「何?」
「元婚約者のジュリアンの温かい記憶を開けるんだよ」
「……ジュリアンには私の力は効かなかったわ。それに、無理やり記憶を見るということ?」
「違う。主にはそんなことはできない。あいつ自身に、扉を開けてもらうんだ」
「私とお茶を飲みながら?」
「あいつが応じるならな。主はもう一度試す価値はある。な?スピカ?」
フリッツがスピカに聞いた。
「そうだ。オイラは試す価値はあると思う」
スピカが言った。
「スピカも言うなら、そうなんだよ」
いつになく、フリッツは歯切れが悪かった。
「私に隠していることがあるの?フリッツ?スピカ?」
私は急に歯切れが悪くなった二匹をじろっと見た。
「いや……主に隠すなんて……その」
——気になる。けれど、今は問い詰めている場合ではない。
「方法が一つしかないなら、そうするしかないわ」
世界中の供給魔力を、いつまでも止めておくわけにはいかない。病院の予備魔力が尽きる前に、教授の署名鍵を封じなければならなかった。
供給魔力が消えた世界で、街灯を失った通りでは、人々が蝋燭と石油ランプを持ち寄っていた。止まった給水器の脇では、若者たちが古い手押しポンプを動かしている。
停止に備えて、広場にはあらかじめ長い卓が並べられていた。王宮から運ばれた茶を、人々が薪の火で沸かしている。魔法の湯沸かし器は動かない。それでも火を焚き、誰かが水を運び、誰かがカップを並べていた。
不便で、騒がしくて、ひどく人間らしい光景だった。
「この世界も、悪くはないわ」
「主、それは選ばれしブルクトゥアタだから言えることだ。主はまだ空を飛べるからな」
「……そうね。地上にいる人たちにとっては、そんなに簡単な話ではないわね」
「さあ、元婚約者のところへ行きますか」
会いたくはない。彼の心を知りたくもない。
けれど、黒幕は書類と関係者の記憶を消した。しかし、スピカの銀針が守ったジュリアンの記憶だけは改竄できなかった。特にスピカの銀針が刺さった記憶には。
私は長椅子を大きく旋回させた。眼下には、魔法の灯を失った街と、代わりに一つずつ灯されていく蝋燭の火が見えた。
「行くわよ、フリッツ、スピカ」
遠くにヴェイン家の屋敷を捉え、長椅子を急降下させた。
世界の魔法を閉じた私が、次に開かなければならないのは、元婚約者の記憶だった。




