43. 【イヴォンヌ視点】 十三歳の初恋に仕掛けられていた罠
黒い馬車の扉が開いた。
従僕が踏み台を下ろす。ジュリアン・エドワード・ヴェインは、それを使って降りた。
磨かれた靴が、白い道の埃をわずかに立てた。
ロミィが十三歳で恋をした男を、私は一度だけ遠くから見たことがある。あのときの彼は、踏み台を待たずに馬車から飛び降りたのだと聞いた。
二年で、人はここまで変わるものらしい。
背が伸びて、肩に厚みが出て、ダークブロンドは一筋の乱れもなく整えられていた。仕立てのいい灰青の上着、艶のある革の手袋。十八歳というより、もう二十代半ばの紳士に見える。
ヘーゼルの瞳が、朝日を受けて金色に光った。
ロミィがこの色に落ちたのだと思うと、正直、少しだけ納得した。悔しいけれど。
彼は輝くように笑って、屋敷の正面を見上げた。
初夏の朝に、革の手袋。
——両手を、隠しているのね。
完璧だった。
完璧すぎて、私は嫌な予感がした。
従僕しかいないのに、まるで誰かに見られているかのようだ。
魔力を使えない私は、その代わりに、見ることばかり覚えた。彼の手袋の周りが微かに震えているのに気づいた。
——式魔だわ!
——ジュリアンは、誰かが放った式魔に見られているの?
私はジュリアンが見張られているのではないかという思いに、背筋がゾッとした。
思わず私の背後を振り返った。
誰かに自分も見張られているのではないかと思ったのだ。
だが、なんの変哲もない別邸の庭園が私の後ろに広がっているだけだった。
私は空いていた窓から侵入した。
軋む廊下をゆっくりと歩く。歩くたびに耳をそばだてるが、何も聞こえなかった。
この館の中にジュリアンと従僕がいるのは確定している。
——気をつけるのよ、私!
気を取り直して、私は東棟一階、家令が領地の出納を管理しているらしい執務室を見つけて忍び込んだ。室内に扉から体を滑り込ませ、乾いた紙と封蝋、革表紙の帳簿が混じった匂いを嗅ぐ。
もちろん、机には目当てのものがなかった。婚約に関する紹介状などがおいそれとあるわけがない。まして、いわくつきで婚約破棄された事案だったなら、なおさらだ。
私は壁際の書棚へ移り、背表紙の年号を指で追った。
一八八三年。
一八八四年。
一八八五年。
二年前の帳簿を抜き出した。
廊下が小さく軋み、私は動きを止めた。
——誰か来る!
廊下を歩いていた使用人のものらしい足音が遠ざかるまで、息を止めた。
ふうっと息をはく。
前世でもこんなことはしたことはない。
二年前の帳簿をめくる手がはたと止まった。
帳簿には、婚約成立の日と同じ日付で、奇妙な支出が記されていた。
『王立魔術博物館、博士へ契約付帯術式鑑定料』
——これだわ、きっと。
次に開いた書類箱から、青い封蝋の押された手紙が見つかった。封印には、杖を囲む二頭の獅子――王立魔術博物館の紋章が刻まれていた。
一枚の手紙がはらりと落ちた。
『叔父より、甥のジュリアンの婚約契約に関して、契約魔術を施すことを約束し、ここに記す。ヴェイン一族の者がロクセンハンナの力を利用する事を可能とする契約魔術を施すにあたり、王立魔術博物館に勤める叔父が協力。ただし、協力料の支払いが発生し、支払う。叔父のXXは、王立高等魔術工芸院契約術式科を修了し、現在王立魔術博物館にて、魔法網の設計を担当……』
そして、手紙には、契約書の草稿が挟んであった。
『ジュリアン・エドワード・ヴェインとロクセンハンナ皇女との婚約定義書について、付帯術式の設計をXXX XX博士へ委嘱する。ヴェイン家によるロクセンハンナ固有魔力の共同利用権を設定するものとする』
これだ。
きっと同じだ。
叔父より、甥のジュリアンの婚約契約に関して——。
肩書きは読める。王立高等魔術工芸院契約術式科修了。王立魔術博物館、魔法網設計担当。
けれど、署名の位置に名前がない。削られたのでも、滲んだのでもない。
そこだけ、目が滑る。
私は 数回読み返して、諦めた。
二年前、婚約契約の場にも王立魔術博物館側の人間がいた。しかも、契約魔術の専門家だった。ロミィの婚約契約書には、最初からトラップが仕掛けられていた。
ギッと音がして、私はハッと顔を上げた。
ハリネズミが私を見返していた。
「スピカ!」
声を殺して私は囁くようにハリネズミに話しかけた。
「ジュリアンと教授は、最初からつながっていたのよ」
その時だ。
勢いよく扉が開いた。
私は咄嗟に身を屈めて、机の下に身を隠した。
「誰だ?こんなに散らかしたのは……」




