40.【カイ視点】君の未来の隣で、蜂蜜菓子を焼きたい
アリス・ブレンジャーは今夜到着する。
それまでに黒幕を突き止めなければならないのに、拘束されたマーティンも、元ピアノ教師のエドマンドも口を開かなかった。カティと母親は本邸で保護したが、カティは黒幕の顔すら知らない。
俺は昨晩、ほとんど眠れなかった。
壁を越えて人の首を絞める術がある。次はロミィが狙われるかもしれない。
犯人はアッシュクロフト家の認証制度を調べ尽くしながら、俺の指輪が現在も有効な認証印だとは知らなかった。
制度を調べても、それを持つ人間までは見ていない。
少なくとも、俺をよく知る者ではないはずだ。
俺の目の前で、歩きながらイヴォンヌがフリッツに聞いていた。
霊獣リスはどんぐりをかじっていた。別館で寝込んでいるディアーナ皇太子妃がリスに食べさせるためのどんぐりを大量に持ってきていた。初夏に秋のどんぐりがあるのか、俺にはそのカラクリはわからない。
「ね、なぜ、ロミィとカイが合うと思ったの?」
「俺は最初に会った時から、カイの中に主の匂いがすると思っていた」
「ロミィの匂い?」
「主に開かれた、温かい記憶の匂いだ。蜂蜜と焼き菓子と、婆さんに褒められた日の匂い」
「そんなものまで分かるの?」
「誇り高き香リスを何だと思ってるんだよっ!」
フリッツはイヴォンヌに憤って、イヴォンヌの肩の上で跳ねている。
「ふふっ」
急に笑い声がして、俺は並んで歩くロミィを見つめた。ロミィが笑っていた。
——幸せだ。
二度も彼女を失いかけた今は、ロミィが隣で笑っている。それだけで胸がいっぱいになった。
ロミィを、もう俺の婚約者と呼んでもいいのだろうか。
でも、父も皇太子も、婚約は正式に進める断言してくれている。
ジュリアンという、いけ好かない十八歳の貴族が頭をよぎった。
あいつは、俺が飛ぶ長椅子や皇女という肩書きを手に入れたいだけではないか、と言った。
馬鹿げている。
自分が令嬢たちの目を引くことくらい、俺も知っていた。けれど、その誰かの前で本当の自分に戻れたことは一度もない。
ロミィだけだった。
「今日は、村の空き店舗を借りて、お茶会をしたいの」
ロミィが言い出し、イヴォンヌも賛成し、エスル姉さんも、おばあさまも大賛成した。
昨晩、使用人全員を対象としたお茶会が大好評で、本邸全体が生き返ったようになった。使用人が急にイキイキし始めたのだ。
ロミィは少し考えてから、恥ずかしそうに付け加えた。
「いつか、本当にこんなお店を持てたら素敵ね。お菓子とお茶を出して、困っている人の契約書や術式書を読むの」
「その店に、俺の居場所もある?」
「カイの?」
「俺が菓子を焼く。君が誰かの忘れたものを取り戻すなら、俺はその隣で蜂蜜菓子を焼きたい」
ロミィは驚いたように俺を見た。それから、頬を赤くして笑った。
「では、お願いするわ。私の店の菓子職人さん」
「うん。予約しておいて」
俺は、ロミィの未来の隣を予約できた、と思った。
その未来を本当に迎えるためにも、今いる黒幕を突き止めなければならない。
灰色の染みを通じてカティを襲った者は、エイトレンスの王立魔術博物館の関係者かもしれない。その可能性をアリスに説明するつもりだった。
「村でお茶会をした後に、会計人ともお茶会をしたいわ」
そうロミィが言い出した時には、俺とイヴォンヌは目配せをした。早速、フリッツが噛み付いた。リスクのある話になると、霊獣も心配になるようだ。
「主、二度と俺を庇うなよ!」
「でも、フリッツもスピカもアルシオンも、みんな大事なの」
フリッツとスピカが同時に草むらへ転がった。アルシオンだけは興味のないふりをしていたが、頭はこちらへ大きく傾いていた。
「カイ、学院に戻る前に、婚約をきちんと発表しなきゃ駄目よ。あなた、自分がどれほどモテるか分かっていないでしょう」
「誰に好かれても関係ない。俺が婚約したいのはロミィだけだ」
「その自覚のなさが心配なのよ。一時期のアルベルト王太子並みよ。あなたが十七歳になったら、ジュリアンなんて卒倒するわ」
「ジュリアンがどう思おうと知らないよ」
俺は隣のロミィを見た。
「俺が皆に知らせたいのは、ロミィが俺の婚約者だということだけだ」
ロミィの頬が真っ赤になった。
アッシュクロフト本邸の周囲の赤い花を全て枯らすのよと、ロミィは言っていた。
午後、アッシュクロフト家の保有する貸店舗でお茶会が開かれた。
お茶会の間、ロミィは四十三番目の術式を使い、貸店舗とその周辺にある赤い花を、自分の視界だけに映していた。
たくさんの村人が来てくれた。倒れた子供を救った事も知れ渡っていたし、偽の包装紙に包まれた菓子を全て父たちが回収したことも知れ渡っていた。元会計人のマーティンが逮捕されたことも。
村人たちは、自分たちの温かな記憶を思い出し、にこやかにお茶を楽しんでくれた。
一人の老人は蜂蜜菓子を一口食べ、しばらく目を閉じていた。
「この味で思い出した。マーティンがまだ子供だった頃、一緒に蜂箱を直したことがある。あいつは計算が早くてな。わしが板を測る前に、必要な長さを言い当てた」
老人は懐かしそうに笑い、ふと顔を曇らせた。
「そういえば、少し前にも同級生を村へ連れてきていたな」
「同級生?」
「テールで魔法網に関わる仕事をしている男だよ」
「その男の名前は?」
そう尋ねると、村の老人は眉間を押さえた。
「名前は……おかしいな。聞いたはずなのに、どうしても思い出せん」
「ほかに何か覚えていませんか?」
「マーティンは、その男を“教授”と呼んでいた」
「教授?」
「テールに住み、王立魔術博物館の古い魔法網の設計に関わった男だそうだ」
その瞬間、隣にいたロミィが窓の外を見て息を呑んだ。
「カイ……今、術式の上に赤黒い花が開いたわ」




