39.【メイド・カティ視点】君を一人にはしない
「私がエスル様の認証印を盗みました」
そう告白したわずか数分後、私は事情聴取を待つふりをして、暖炉脇の清掃用扉から逃げ出した。
誰かに認証印の隠し場所を話した瞬間、母を殺す。
壁の中から聞こえたあの声は、そう言った。
だから、私は隠し場所をアッシュクロフト家の皆様にお伝えすることができない。事情聴取を待つ間に使用人通路から抜け出したのだ。
——認証印を持ち出して、母さんも起こす。
——二人で宮殿へ戻り、すべて皇女様に渡そう。
犯人に気づかれる前に済ませれば、母さんを守れるかもしれない。
誰にも場所を教えず、私一人で持ち出せば、犯人には分からない。
そう思い込むしかなかった。
時計が十一時半を打つより先に、私は白いエプロンを外した。
畳む余裕などなかった。エプロンを丸め、モスリンのキャップと一緒に廊下の戸棚へ押し込んだ。
客室階の表廊下には、まだ二つのランプが燃えていた。磨かれた鏡と金箔の額縁が、その光を何倍にもしているが、壁の一枚扉を抜けると、宮殿はたちまち別の顔になるのだ。使用人通路には装飾も絨毯もなく、私の駆け抜ける足音が響いた。
石灰を塗った壁、油煙で曇ったランプ、何千もの足に中央だけをすり減らされた石段だ。
暗がりの中、裾を持ち上げて駆け下りた。
二階。
葡萄農家で生まれた貧しい母は、不治の病と言われた。でも、私は諦めなかった。アッシュクロフト宮殿で働き、母をアンバーミードの村に呼び寄せ、村外れに借家を借りて、住まわせ、アッシュクロフト家も診ている評判の医師に診察してもらった。
中二階。
治療費を貸してくれたのは、同郷のマーティン・フェンウィックさんだった。マーティンさんは、会計人として既にアッシュクロフト宮殿で働いていた。
厨房階。
「一度だけ手伝えば、借金はなくなる」
マーティンさんはそう言った。
断ろうとした夜、母の寝室の壁から声がした。
『言うとおりにしなければ、次は母親の息を止める』
犯人にそこをつけ込まれ、私はエスルお嬢様の認証印を盗み、偽物とすり替えた。
本物は命じられたとおり、母の借家の屋根裏へ運んだ。
——こんな時だけ、お屋敷の大きさが恨めしいわ……。
私の靴音が石壁に跳ね返り、自分の足音なのに、誰かに追われているように聞こえて、私は何度も立ち止まって後ろを振り返った。
地下厨房に駆け降りた。冷えかけた炉の赤い光が残っていて、焼いた肉の脂、濡れた灰、酵母を混ぜたパン生地の匂いが混ざっていた。
朝のパンを仕込む厨房下働きが、まだ起きていた。私は一気に駆け抜けた。洗濯場を通り抜け、通用門の横を通り抜けた。洗濯女中が早朝に使う門は内側の閂だけだ。私はここを開けて外に出たら、二度と戻れないと知っている。
その時、カワセミが私の横を掠めるようにして飛んで行った。
——もうすぐ真夜中だというのに……こんな時間にカワセミ?
私は小鳥が飛ぶ時間ではないと思いながらも、外に出て走った。
初夏とはいえ、真夜中の風は冷たかった。石畳に仕事用の革靴がこだました。
正面広場へは出られない。向かいの主衛所には灯があり、厩舎では夜番の馬丁が起きていた。
私はアッシュクロフト宮殿の外壁に沿って走った。庭園の石塀が切れるところから西の道へ折れた。
必死でアンバーミードの村外れの母が寝ている貸家まで走った。
まもなく真夜中になるから、村は真っ暗だった。家々の窓はほとんど閉ざされていた。遅くまで営業していた酒場の奥で男たちが笑っているだけだ。犬が一匹吠えて、通りの先でも別の犬が応え、私は心臓が凍りつきそうになった。
教会時計が十一時四十五分を打った。
私はスカートを両膝までたくし上げた。ペティコートの裾が脚に絡み、コルセットに締められた胸は、どれほど息を吸っても足りない。
——アッシュクロフトの皆様は、きっと私が村に住まわせている母が寝ている部屋をすぐに突き止めるだろう。認証印も見つかってしまうわ。
でも、あの犯人の脅しは本気だ。
あんな魔力の使い方をされたら、母の命はひとたまりもないだろう。
——隠し場所を誰かに知られたら、母さんが殺される。
——屋根裏に置いたままなら、明日の夜に来るという王立魔術博物館の捜査官に見つけられるわ。
今、私に、走る以外の道はなかった。
頭上で、かすかな羽音がした。
振り返ったが、夜空には何も見えなかった。
雲の切れ間で、何か細長いものが動いた気がした。けれど、立ち止まって確かめる余裕はなかった。
母の暮らす借家に着き、そっと寝室を覗くと、母は眠っていた。
私は屋根裏に駆け上がった。
屋根裏の窓は、昼間の熱を逃がすために開けたままだった。
はぁはぁと息が荒い。
「あった!」
思わずカゴの中の布に包んで隠した、蜂巣形の真鍮製認証印を持ち上げた瞬間、屋根裏の漆喰壁に灰色の染みが広がった。
染みの中心から青紫色の煙が二本伸びた。人間の腕のように私の首へ巻きつき、一気に締め上げた。
「うっ!誰か……助けて……」
私はもがいた。なんとか煙を首から離そうとするが、相手は魔術師だ。私の首はどんどん締め上げられて、ついに苦しさのあまりに気を失いそうになった。
その時、目の端にカワセミが映った。
壁から滲み出ている灰色の染みに、カワセミの嘴が容赦なく襲いかかったように見える。
目の前がかすみ、意識が朦朧としてきた。
カワセミの嘴が、壁の灰色の染みを貫いた。
『ぐああっ!』
屋根裏からではない。壁のはるか向こう側から、人間の絶叫が響いた。
開け放した屋根裏窓の向こうで、月明かりがふっと遮られた。
赤いビロードの長椅子が、夜空に浮かんでいた。皇女様がこちらへ身を乗り出し、その身体をカイ様が後ろから支えている
「ロミィ、また一人で飛び込むな!」
「それなら、一緒に来て!」
「そのつもりだ。君を一人にはしない!」
カイ様の腕が、倒れかけた私の身体を抱き留めた。
「カティ! しっかりして!」
皇女様の声だった。
認証印を握り締めた私の手を、皇女様の両手が包んだ。頬の下に赤いビロードの柔らかさを感じた。
「母さんを……助けて……」
「必ず助けるわ」
皇女様の声を聞いて、私は意識を手放した。




