37. アリス・ブレンジャーが来る前に
王立魔術博物館の館長はブレンジャー子爵だ。その令嬢ならば、アリス・ブレンジャーだろう。ディアーナ姉様からその名を聞いたことがあった。
確か、ブランドン公爵令嬢だったディアーナ姉様がエイトレンスのアルベルト王太子と婚約破棄した理由は、エミリー・ブレンジャーとアルベルト王太子の浮気が原因だった。
貴族社会は狭い。私だって知っている。ルイ兄様とディアーナ姉様の絵がザックリードハルトの新聞の一面を飾り、当時は大騒ぎだったのだ。アルベルト王太子がフラれて、ルイ兄様が選ばれたと。
アリス・ブレンジャーはエミリーと違って、相当なやり手と聞く。ならば、彼女が到着する前に、私はこの件を片付けなければならない。術式の実行を咎められて、逮捕されるかもしれないのだから。
アリス・ブレンジャーは、悪事を働いた実の姉エミリーを、自ら捕らえに走った人物だ。身内だからといって決して庇わない。
だからこそ恐ろしい。
私が禁術を犯したと判断すれば、彼女はためらわず私を逮捕するだろう。
けれど、王立魔術博物館の側に不正があると分かれば、彼女は博物館を庇うこともしないはずだ。
アリス自身には魔力がない。必要な魔力を、その都度購入している。だから彼女は、どこから、どれだけの魔力を買い、どの術式へ使ったのかを決して曖昧にしない。
王立魔術博物館が夜ごと魔法網へ放っている巡回使い魔が、私の術式の痕跡を見つけたのかもしれない。
彼女が寝台特急に今日飛び乗ったとしても、明日の真夜中まではここまで来れないはずだ。
窓辺の家々の明かりが温かく見えた。アッシュクロフト家までの道のりは、ひどい空腹を思い出させるのに十分だった。
「お腹がすいたわ」
イヴォンヌが口を開くと、フリッツとスピカが言った。
「オイラもだ」
「俺もだ」
「私もよ、カイもでしょう?」
「あぁ、お腹が空いた」
私たちは互いの顔を見合わせて笑った。
「お腹が空いて、よく考えられないわ」
私はそうつぶやき、カイの肩によりかかった。
自然な動きだったが、カイの顔が真っ赤になった。
「あ、ごめんなさい」
「いや……そのままでいて」
カイは今朝焼いたという蜂蜜菓子の残りを私たちに分けてくれた。私はポケットから胡桃を取り出して霊獣香リスにあげ、イヴォンヌがアッシュクロフトの本邸から持ってきていたバナナのかけらを霊獣ハリネズミにあげた。
バナナは南国のエキゾチックな高級品だが、アッシュクロフトの本邸には沢山あった。私たちはバナナも食べ、本邸に戻った後の計画を話した。
「まず、夕食を食べるでしょう?」
「もちろんよ」
「その後、使用人全員を集めて、お茶会をしましょうか」
「料理人たちも?」
「お皿を片付けたり、彼らにはまだ仕事があるのよ」
「でも、休憩は必要よ。交代に全員参加してもらいましょう」
「でも、宮殿と呼ばれるだけのことはあるわ。アッシュクロフトの本邸はすごいわ」
イヴォンヌがうっとりした様子でつぶやいた。
「ほら、本物の皇宮からやってきたロミィにとっては驚きはないでしょうけれど。モンフォール伯爵家も大きいけれど、アッシュクロフト家に比べたら、比較にならないわ」
私の顔を見てイヴォンヌが言った。
「そうだ、君たちが来てくれたから、朝から料理人たちがサクランボや酸果桜のレーテシュ、苺や木苺のタルト、胡桃のトルテ、マドレーヌや小型焼き菓子、 果物のコンポートにアイスクリームを準備していたんだ。それを使用人たちに振舞って、お茶会をしよう。寝台列車でやったのと同じことをしたいんだよね?」
カイの言葉に私はうなずいた。
「人々が温かな記憶を思い出せば、赤い花の力は弱まるはずよ。もし誰かが赤い花に心を引かれて罪を犯したのなら、本当の自分を取り戻して、話してくれるかもしれない」
そうだ。
寝台列車で起きたことを、ここでも起こせるかもしれない。
「ピアノの先生のことを忘れていたけれど、ピアノの先生にモルヴァネラを育てさせた者と、エスルの認証印を盗んだ者。そのどちらかが屋敷の中にいるなら、お茶会で何か分かるかもしれない」
カイの元ピアノ教師はモルヴァネラを栽培した現地協力者だ。アッシュクロフト家の会計係は取引で利益を得ようとした内部犯だ。だが、彼らが世界中を迂回する偽装術式を設計した黒幕だとはとても思えない。王立魔術博物館に近い天才術師が影に隠れているのではないだろうか。
——あぁ、ディアーナ姉様は私の傷を治すために力を使いすぎて、倒れてしまったわ。
私だけで、太刀打ちできるのだろうか。まるで私の心を読んだかのように、霊獣二匹が断言した。
「主、今度こそ俺がいる」
「主、オイラもいる!アルシオンもいるぞ」
フリッツとスピカは私に断言した。
「ウィーンの印刷工房、魔力郵便車、パリの商業組合、トラウンシュタインの閉鎖された古い魔術塔、また魔力郵便車、王立魔術博物館の公開術式、エイトレンスの商取引記録のあとは……なんだっけ……」
「主、そこで止めたんだ。七十二番目の術式遮断をした」
「エイトレンスの商取引記録が最後?」
「あぁ、そうだ。王立魔術博物館もエイトレンスだしな」
「全ての謎がエイトレンスに繋がる?……」
私はエイトレンスの首都テールを思い浮かべた。
——ディアーナ姉様の実家のブランドン公爵家に遊びに行って、しばらく滞在して調べてみようかしら?
「あ、今、ロミィはテールに行ってみようかなと思ったでしょ?」
「なんで、分かったの?」
「分かるわ。その時は私も行くわ」
「俺も」
私たちはなんだか旅行気分になって、そんな話をした。だが、赤い花と怪物のことを一時的に忘れたくてそんな話をしただけだ。
実際にはテールへ向かう前に、片付けなければならないことがある。エスルお姉様の認証印を盗んだ者が、今もアッシュクロフト宮殿の中にいるのか。
今夜、それを確かめなければならない。




