36. 忘れられた旧認証を失効せよ
「姉様!」
私はハッとしてディアーナ姉様を起こそうとしたが、正体もなくディアーナ姉様は意識を失っていた。
ようやく扉が開いて、ルイ兄様が飛び込んできて、私がすっかり元気になって、姉様のショールを羽織っているのを見て何が起きたのかを悟ったようだ。
傷は消えていた。けれど、ブルーグレーのボディスには、大きな焦げ跡が残っていた。銀灰のショールはドレスの焦げ跡をすっぽり隠してくれていた。
「アッシュクロフト家にしばらく滞在しましょう、二週間ぐらい寝ていれば前のように……」
私が伝言を伝えようとすると、ルイ兄様は遮るように手を振った。
「分かった。お前を救おうとしてくれたんだ。分かっている」
ルイ兄様はディアーナ姉様の体をそっと抱き寄せた。馬車の外に着地していた長椅子に手を振って合図をすると、長椅子は轟音をあげてザックリードハルトの皇宮の地下室に戻って行った。
「医師と霊獣をここに呼んでくれ。お前はすっかり元気だな?」
私はうなずき、馬車の外で待っていた医師を呼んだ。
「なんと、もうすっかりお元気になられて……」
医師は度肝を抜かれたように私を何度も見つめ、首を振った。そして馬車に乗り込んだ。
「スピカ、フリッツ、ルイ兄様が話があるって」
私がすっかり元気になったのを見て、フリッツとスピカは地面にひっくり返っていた。腰を抜かすほど驚いたようだ。
「主!どうしたんだい?どんな技を!?」
「ブランドン公爵令嬢って有名だったんだ、フリッツ。化け物みたいな魔力……」
「スピカ!」
「スピカ!」
「スピカ!」
私が怒鳴って遮るのと、イヴォンヌとカイが叫ぶのと同時だった。
「俺のロミィを救ってくれたお方にそんなふうに呼ぶのは絶対に許せない!」
「私の従姉妹を救ってくださった皇太子妃をそんな風に呼ぶのはダメよ!」
二人がスピカに説教をし、スピカはうなだれた。
「今のはお前が悪い、スピカ」
フリッツもしっかりとスピカに目配せをして言った。
馬車に乗ったフリッツとスピカは、コンコンとルイ兄様に説教をされた。
霊獣としての心構えが足りない、霊獣としての気の利かせ方が足りない、霊獣として主を守れずどうする、自分が守ってもらうなんて言語道断、今すぐにアッシュクロフト家に悪さをしている元凶を正せ、と。
フリッツとスピカは足を引きずるようにして馬車から降りてきた。
「ロミィ、元気になったら、二度と悪さをされないようにしっかりと封鎖しなさい」
馬車の扉を閉めるように合図をしながらルイ兄様は言った。馬車の扉は閉まって、御者が馬車を動かし始めると、馬車の窓が開いてルイ兄様が言った。
「最後の術式で完全にバレたぞ。王立魔術博物館の館長であるブレンジャー子爵の娘がやってくるそうだ。寝台特急でやってくる。その間に完璧に片付けるんだ」
私はうなずいた。すっかり日が暮れて真っ暗になっていた。
——バレるわよね。
私たちはイヴォンヌが医師と一緒に乗ってきた馬車に、乗った。
「さあ、今度は失敗しないわよ」
私はフリッツ、スピカ、カイ、イヴォンヌに宣言した。二人と二匹は顔を見合わせて頷きあった。
馬車はアッシュクロフト家に向かって動き出した。
イヴォンヌは膝の上に古い革製の帳簿を広げた。
「収穫は三つよ。まず一つ目はこれよ。菓子学校で手に入れた偽物の製造誓約書よ」
途端にスピカは転がるようにイヴォンヌの元に走り、イヴォンヌの手にある製造誓約書へ仕込まれた偽りの術式だけを銀の炎で焼いた。
「この製造誓約書を利用した菓子は、もう作れない」
スピカが宣言した。
「ありがとう、スピカ。二つ目の収穫は取引所で怪しい人を見つけたの。事件が公になる前に蜂蜜を大量に売り、値下がりしたら三倍買い戻す注文まで出していた人よ」
イヴォンヌの言葉にカイは眉を潜めた。
「事件が起きることを知っているかのような行動だな。そいつは誰だ?」
「アッシュクロフト家の会計係だったの。エスル様が取引所の警備員に命じて、身柄を押さえたわ」
カイはハッとして身じろぎをした。
「うちの家の者だったか」
ショックを隠せない様子だ。
「そして、取引所の引継簿に書かれていたのよ。『メルボロー認証原簿、本邸蜂蜜蔵へ返納』と。ほら、出発前にロミィがお祖母様に聞いていたじゃない?あの蔵はなんですかって」
そうだ。
私は確かに空から見たときに不思議な形の蔵を見た。あれは、メルボロー時代からの蜂蜜蔵だと言われた。
「だから、私とエスル様は本邸に戻ったのよ。そして三つ目。これを見つけたの!」
イヴォンヌは膝の上に広げた古い革製の認証原簿を指差した。失効欄が空欄だった。
イヴォンヌの話では、蜂蜜蔵の奥には、メルボロー取引所がまだ小さかった頃に使われていた古い帳場があったという。酒樽の棚の裏に、過去の証書や認証原簿を納めた鉄製の保管箱が残っていた。そして、メルボローの認証原簿をエスル姉様と一緒に見つけたのだという。
「エスル様はすぐにご自身の部屋からこの蜂巣形の真鍮製認証印を持ってこられて、失効欄に押そうとしたのよ」
「エスルお姉様にも、旧認証を失効させる権限はあったのね?」
「もちろんよ。エスル様は原簿へ署名し、ご自分の家門認証印を押した。でも、原簿は何も受け付けなかったの」
スピカは、エスルから預かった蜂巣形の印を調べた。
スピカの全身の銀針が一斉に立った。
「こいつは偽物だよ!」
「だから、エスルお姉様の失効命令が拒否されたのね」
フリッツが偽物の印へ鼻を近づけた。
「本物を盗んだ理由も分かった。旧メルボロー認証は、押された印が本物かどうかしか確かめない。誰が押したかまでは確かめないんだ」
「それが、古い認証の綻びなのね」
「ああ。犯人はエスルの本物の印を使って、毒入りの菓子を正規品として通した。そして、盗んだことが分からないように偽物を置いた」
「本物は、屋敷の中で何者かに盗まれたんだ。会計係か?もしくは、第三の人物が入偽物にすり替えたか……」
「エスル様が失効を試みた直後、フリッツが飛び込んできたの。私は原簿を持ち、医師を連れてあなたたちのところへ向かった。エスル様は、会計係の拘束と認証印の盗難をお父様へ報告しに行ったわ」
蜂巣形の真鍮製認証印をカイに渡した。カイはその認証印を記憶を探るようにじっくりと見ている。
「ちょっと待って。そのカイの右手に光る指輪は ……?」
寝台列車でジュリアンが一目見て、その財力を悟った指輪。パリの一流工房に特注した、アッシュクロフト家の紋章を刻んだあの指輪だ。カイはあの時からずっと、それを右手にはめていた。
「カイが今しているその指輪も、家門認証印ではなくて?」
「そうだ!」
十五歳のカイがずっとザックリードハルトのセント・エントン王立学院でも身につけていた指輪が、この場では非常に有効な家門認証印になるのだ。エスルお姉様の印を盗まれても、アッシュクロフト家の認証そのものを奪われたわけではない。
ここに、もう一つの本物があった。
「現在のアッシュクロフト家の者が、その原簿へ失効署名をすればいい。正しい家門の指輪を蜜蝋印へ押すことで、魔法網全体に「この認証はもう無効」と伝わる仕組みだから」
フリッツが早口で言った。
カイは銀のインクをペン先に含ませ、失効欄へ自分の名を書いた。
イヴォンヌが、その下へ琥珀色の蜜蝋を一滴垂らした。
カイは家門の指輪を蜜蝋へ押しつけた。
今日の日付と時刻が銀色に浮かび、薄紫色の光が原簿を走った。
「おぉ!やったぞ」
薄紫色の光が原簿を包み、すぐに消えた。
「旧認証は失効した」
スピカは偽物の認証印をイヴォンヌに渡した。
「これは壊さないでくれ。エスルの本物の印とすり替えられた証拠だから」
カイは銀色に光る失効欄を見つめ、拳を握った。
「旧認証は止まった。次は、姉さんの本物の認証印を取り戻す番だ」




