33. 侯爵令息に「婚約者」と呼ばれた日、私は彼の目の前で倒れた
——婚約者。
ついさっき自分でも望んだはずなのに、カイの口から聞くと胸の奥が熱くなった。
「こんにちは」
まだ疑い深い目でカイを見ている、白髪の男性が私に挨拶をした。
フリッツとスピカは私のドレスの中に隠れていた。
「臭い臭い!主、まずいぞ」
小さくフリッツが私に言っているのが聞こえる。
「ほら、俺が焼いた蜂蜜菓子だ。今朝焼いたんだけど、食べる?」
カイが男性に焼き菓子を差し出した。
——今朝?カイは昼食の席で、自分も今起きたと言っていなかったかしら。
——あれは私に合わせただけだったのかしら。
その疑問を口にする暇はなかった。
畑の隅には古い蜂箱がいくつかあった。それを男性はチラッと見て、カイの焼き菓子を手に取った。
一口焼き菓子を食べた男性は、ふっと遠くを見る目つきになった。
「あぁ、アッシュクロフトのお祖母様のレシピだね。懐かしい味だ。カイが焼いたなんて信じられないな。うまいよ」
白髪の男性は、古い蜂箱に目をやり、静かに言った。
「そういえば、むかーし、言われたことがあったな。あなたは蜜の違いを見抜ける。いつかメルボローの蜂蜜を守る人になるわってね。アッシュクロフトのお祖母様とは、幼馴染でね。結婚の約束をしていたぐらいだ。あぁ、もちろん、十歳にもならない子供同士の約束だがな」
懐かしそうにそう語った男性は、急に黙った。男性の唇の端が震え始め、嗚咽が漏れた。男性の目から涙が溢れ落ちた。
「俺は何をしてたんだろ。蜜の違いを見抜けるのを、もっと違う方法でちゃんと活かせばよかった。俺は、偽物の蜜を見抜ける人になれと言われた。それなのに、自分で偽物を作ったんだ。なんて馬鹿なことを!」
男性は崩れ落ちるようにして土の上に両手をついた。
「子供を倒れさせてしまった!何の罪もない子供が、俺の蜂蜜を使った菓子を食べて倒れた!俺のせいだ。俺が悪かった。自首する」
老人がそう言った瞬間、スピカの銀針が一斉に立ち上がった。だが、今までのような威嚇ではなかった。銀色の光が、針の先に静かに灯っている。
「嘘じゃない。今の『自首する』という言葉は彼の本音で本物だ」
フリッツが鼻をひくつかせた。
「主、臭いが薄くなった。こいつの中から、あの嫌な臭いが抜けていく感じがするぞ?」
アルシオンが灰色の影を突いた時のことを思い出した。あの時も寝台列車の中で懺悔をし始めた第二書記官から灰色の影が染み出した。
——そうなのね?怪物は人の負の気持ちに漬け込んで、踏み外そうとする心を増幅させるのね……。
——選んだのは本人でも、怪物は戻れなくなるまで悪意を膨らませるんだわ。
——人が我に返って、本来の温かい気持ちを取り戻すと、そこにいられなくなるんだわ。
でも、まだ謎がある。全てはこの老人が仕込んだとはどうしても思えなかった。
「俺がモルヴァネラを育てた。蜂箱も置いた。だが、あの術式を仕込んだのは俺じゃない。あれを教えたのは——」
四つ這いになり、頭を抱える老人の背中から、灰色の塊が絞り出されるように現れた。 私とカイは後ろに後ずさった。
「離れろ、主!こいつは、この爺さんの中にいられなくなって、外へ出てきたんだ!」
フリッツが叫んだのと、私たちが走り始めたのは同時だった。
「逃げろ!」
「長椅子に乗って!」
私は置いていた長椅子がこちらに飛んでくるのをつかまえて、さっと長椅子に乗った。カイも飛び乗ってきた。フリッツとスピカは私のドレスにつかまっている。
「行くわよ!」
長椅子が空に浮き上がった。だが、スピカの銀針の一本から、青紫の煙が糸のように立ち上がった。
「スピカ! お前の針にまだ残っていたのか!」
フリッツが飛びつこうとした瞬間、紫煙は鋭く宙を走り、老人の背中から現れた灰色の怪物へ吸い込まれて行った。
「うわっ!まずいっ!」
カイが叫んだ。
先ほど昼食の直後に偽物の包装紙の術式遡及をした時に追われた青紫の煙が再現したのだ。
「術式遡及のあとに現れた紫煙と、この怪物はつながっていたんだわ」
紫煙を吸い込んだ怪物の灰色の身体に、青紫の筋が走った。それまで輪郭の曖昧だった顔が、突然こちらを向いた。灰色の怪物の体から、青紫の煙が光線のような速さで放たれた。
長椅子を急旋回したが、青紫の煙がずっと追ってくる。
「なんでっ!?」
私は慌てて、長椅子をさらに急上昇させた。
「あいつは俺たちを見て追ってるんじゃない!紫煙がネフェロバテスの魔力の匂いを覚えているんだ!」
「なんですって!?」
私は思わず止まりそうになり、青紫の煙が掠った。当然ながら、次は容赦しないといった様子で青紫の煙が追ってきた。
私は思い切って長椅子を塀の外に下ろし、慌てて皆を下ろした。
「長椅子の魔力を覚えているなら、長椅子の方が、私より強く匂うはずよね?」
「そうだ、主!長椅子を飛ばせ!」
私は飛ぶ長椅子を急上昇させた。
灰色の怪物は塀を突き抜けて私たちの方に近寄ってきたが、私たちには見向きもせず、顔を空の長椅子へ向けた。怪物は頭に来たのか、首を振った。青紫の煙が青紫の光に変わった。怪物から放たれた青紫の光線が長椅子を追っていく。
「ネフェロバテス、青紫の光線をかわして飛んで!」
「主はネフェロバテスを囮にしたのか?」
「そうよ、長椅子が頑張って交わしている間に、私たちは走って逃げるわよ!」
空の上で、長椅子が狂ったように飛び続け、その後ろを青紫の光線がしつこく追っていた。
私たちは走った。湿原を走ろうとしたが、ぬかるみに足を取られて転んだ。
「ロミィ、立って!」
カイが慌てて私を立ち上がらせてくれた。走って、走って走った。元の道が分からなくなり、寂れて荒れ果てた農園の庭を突っ切り、森の道を駆け抜けた。
汗だくになって空を見上げると、青紫の光線が飛ぶ長椅子を執拗に追い、主を失った長椅子が煙についに追い詰められていた。
私はサッと腕を上げて、長椅子を撤収させた。轟音を上げ、飛ぶ長椅子が消えるようにしてザックリードハルトの皇宮に戻った。
長椅子の姿を見失った青紫の光線は、今度は私に一直線に飛んできた。
「だめだ。走るんだ!」
カイが必死に私の手を取り、走ったが、すぐ後ろに青紫の光線が迫ってきた。怪物も追ってきていて、私たちの視界に現れた。
「主に触るな!」
フリッツが私の肩から飛び出した。
青紫の光線は小さな霊獣へ向きを変え、青紫色の光を収束させた。
考えるより先に、私はフリッツへ覆いかぶさった。
小さなフリッツの身体を胸へ抱き込み、背中を丸める。
「主、何を……!」
光が背後まで迫った。私は歯を食いしばり、頭に浮かんだ式を叫んだ。
「七十二番——術式遮断!」
青白い文字列が、私の背中へ迫る青紫の光を横切った。
接続が切れた。
それでも、切断される直前に放たれた光は止まらなかった。
次の瞬間、青紫色の光線が、上から私の背中に叩きつけられた。
青紫の光が背中を灼き、息が止まった。
焼け付くような痛みとともに、私はその場へ崩れ落ちた。
「主の大馬鹿者!俺を守って主が死んだら、俺は誰を守ればいいんだよ!」
フリッツは怒鳴っていた。私は痛みで気を失いそうになっていた。
フリッツは、動きを止めた私の頬へ触れた。
小さな両手は震え、丸い瞳から涙が落ちていた。
カイが声にならないうめき声を上げて、私に駆け寄ってきた。
ここまでお読みいただきまして、本当にありがとうございます。
次話はカイ視線でスタートとなります。




