32. 婚約破棄から二年、私はもう一度婚約を選んだ
「二人とも、本当に気をつけるんだ。誰か人をつけよう」
アッシュクロフト当主が言ったとき、私は慌てて首を振った。私の淡いブルーグレーの軽い絹混ポプリンのドレスは、これからの冒険にふさわしいのか分からない。だけれども、護衛をつけてもらうわけにはいかないという思いがあった。
「待ってください」
養蜂研究所の前に止めた馬車には、アッシュクロフト家お抱えの御者が座って待っている。私はそれをチラッと見て、囁くように言った。
「言いにくいのですが、このメルボロー認証術式のことを知っているのは、この村に昔から住んでいる人だと思うのです。そうでなければ、この方法を思いつかないと思うのです。誰が企んだのか分からない今、無闇に人をつけていただくと、かえって危険だと思うのです」
私の説明に、アッシュクロフト当主はたじろいだ。お祖母様も不安そうな表情を隠せていない。
「皇女様の言うとおり。我々は用心をしなくてはならないな」
私たちは互いの顔を見て頷いた。イヴォンヌが提案した。
「私は取引所で、事件前にアッシュクロフト産の蜂蜜を大量に売却した者がいないか確かめに行きますわ。事件が起きることを予想して、事前に大量に売却したかもしれませんから。その後、菓子職人学校に行って、問題の蜂蜜菓子に添えられた製造誓約書に関わった人物を探します」
スピカが胸を張って言った。
「じゃ、オイラはイヴォンヌと一緒に行くよ」
その提案をイヴォンヌは退けた。
「ダメよ、モルヴァネラ栽培地が最もリスクがあるわ。スピカはロミィを守らないとならないわ。私は術式をメモしたのよ。偽物のレシピの製造誓約書を見つけることは、モンフォール家の私にだってできるわよ」
イヴォンヌの言葉にエスルが頷いて言った。
「私もイヴォンヌ嬢と一緒に行きますわ」
イヴォンヌとエスルはにっこりと微笑みあった。
アッシュクロフト当主は頷き、言った。
「では、私は商品の回収と旧認証の緊急停止を準備しよう」
お祖母様とアッシュクロフト夫人は当主と一緒に行き、手分けして商品の回収を手伝うと言った。
こうして、私たちは三方に分かれて馬車に乗った。
カイと私は同じ馬車に乗り、カイが御者に鉄道駅の方に向かい、駅の向こう側のベル湿原の方に進めるように伝えたのを聞いた。ペンブリ湖の近くのようだ。
初夏は日没が遅い。まだ日没までは十分時間があった。
アッシュクロフト領を訪ねて、大変なことが起きている事件に遭遇した。本当は、私がザックリードハルトの皇都リードミンスターにある聖セレスティーヌ女学院の庭で、フリッツを召喚したことが絡んでいる。私がしたことで魔法結界が緩み、魔術式の綻びが露呈し続けているのだ。
「ごめん。もっと楽しい顔合わせになると思ったんだ。でも、こんな事に巻き込んでしまって本当に申し訳ない」
不意にカイが私に言った。馬車の中で真向かいに座るカイは、真っ直ぐに私を見つめていた。エントン王立学院一と言われる美しい顔が、私を真剣に見つめていて、私は言葉を一瞬失った。胸がドキドキする。
「俺と婚約するのが嫌になったら、正直に言って」
カイは一瞬悲しげな表情を見せたが、私を心配そうに見て言った。
「……嫌になんかならないわ」
私はやっとの思いで答えた。
フリッツとスピカは息を飲んで、私とカイのやりとりを見守っている。2匹が座席に座って、固唾を飲んで私とカイの様子を交互に見ている。2匹とも口を開けて、成り行きから目が離せないといった表情だ。
「本当に?無理してない?」
カイは私の顔を覗き込むようにして聞いた。
「無理なんかしてないわ。カイが望んでくれるからではないわ。私も、あなたと婚約したいの」
ついに言ってしまった。
——あぁ……本音だわ。
私の本音は、心からカイとの婚約を望んでいた。まだ15歳なのに、でももう15歳なのだ。皇女としては、婚約者を決めて当然の年齢だ。
「よかった。ロミィ、ありがとう!」
カイは少し涙ぐんだ。
「キラキラ貴族ちゃん、完全に主の心を捉えたな!はは!」
「フリーっっツ!だ・ま・れ・お・じゃ・ま・む・し!」
スピカが変に名前を伸ばしてフリッツを呼んで、フリッツの体に体当たりした。
「いたっ!スピカ、針を出すな!」
「何!?フリッツが空気読めないからだろ!」
「俺が!?俺が!?一体いつ、空気が読めなかった!?」
霊獣香リスと霊獣ハリネズミがゴロゴロと取っ組み合いの喧嘩を始めて、私は思わず席を変わった。カイの真向かいから腰をあげて、カイの隣に座ったのだ。
「うふっ、ハハっ」
「ははっ!なんでそんなに喧嘩するんだ」
私とカイは笑いが込み上げてきて、2匹の霊獣がゴロゴロと真向かいの座席の上を転がる様を見て吹き出した。
緊張が一気に解けた。
窓の外は、人で賑わう鉄道駅に近づいたかと思うと、あっという間に通り抜けていた。白い漆喰壁の家々が立ち並ぶのが見えた。葦葺きの屋根に、どの家にも木柵があった。窓辺にはゼラニウムの鉢が置かれ、さくらんぼの木に赤い実がなっている。道端には井戸があり、道の遠くには教会の尖塔が見えた。鶏や鵞鳥が飼われている庭が見え、果樹園を通り抜け、やがて馬車の轍が残る未舗装路に差し掛かり、干し草が山のようにつまれた畑や納屋を通り過ぎて、ぬかるんだ道に変わった。
やがて馬車が止まった。湿原に差し掛かったのだ。カイが先に馬車を降りて、私もカイの手につかまって馬車を降りた。
「ここで待っていてくれ」
カイが御者に言うと、御者は心配そうな表情を浮かべて言った。
「お気をつけてください、ぼっちゃま。この辺りはあまり人が近づかない場所です」
「分かっているよ。ありがとう。日が沈んでも帰らなかったら、屋敷に知らせてくれるか?」
御者は不安そうに頷いた。
私たちは湿原の脇の小道を進んだ。人がやっと一人通れるぐらいの小道があり、隣の森からスズランの冷たく甘い香りが時折していた。ニワトコの白い花の甘い香りや木苺の葉の青臭さ、踏み潰された草の匂いがしていた。フリッツとスピカは私の両肩にいた。
やがて、沼から上がる水と泥の匂いしかしなくなった。
「昔、この辺りは猟をする場所だったらしい。だが……あれは?」
カイがふと足を止めて、前方に目を凝らした。
赤煉瓦と漆喰の五メートル以上の壁が湿原と森の境に出現していた。古い狩猟園を囲んでいた壁らしく、村では中は長年放置されていると思われていた。
「主、臭うぞ、臭うぞ」
フリッツが突然顔を顰めて、両手で鼻を覆った。
私とカイはハッとして顔を見合わせた。
——灰色の怪物が近くにいるのね……?
私は瞬時に飛ぶ長椅子を呼び出した。遠くザックリードハルトの皇宮から一気に飛んできたらしく、飛ぶ長椅子は私の横に現れた。私は飛び乗り、カイもひらりと飛び乗った。フリッツとスピカも私のドレスにつかまっていた。
「行くわよ!」
ふわりと上空に長椅子を飛ばせた。はるか高くから、赤煉瓦と漆喰の壁の中を見た。青紫のモルヴァネラの花が大量に栽培されているのが見えた。
「術式顕現!」
私の声に応じ、無数の文字列と魔法陣が空中へ広がった。青白い光の帯が壁から天井までを埋め、その合間に、赤黒い花のような染みがいくつも咲いていた。
——だめだ。汚染されている。
「術式照合」
私は二十一番目の術式を参照した。
空の上からでも、青紫の花が、倒れた子供の胸にあった術式と全く同じ術式である事が分かった。
「間違いないわ。青紫の花はモルヴァネラよ」
モルヴァネラ栽培畑の隅に、一人の男性がいた。私たちに気づかず、水やりをしているようだった。
ここからは、それが誰だかまるで分からなかった。
「彼の近くに降りて、顔が見たい。でも、気をつけて!」
カイが私に囁いた。
「分かった」
私はふわりとモルヴァネラ畑の隅に長椅子をおろした。長椅子は戻さず、その場に残したまま、水やりをしている男性の背後に慎重に近づいた。
「あっ!」
小さくカイが叫び、慌ててカイは口元を両手で隠した。男性は気づかない。
「こんにちは」
私が声をかけると、その場に男性はひっくり返った。
「誰だ、あんた。なぜここにいる!?」
驚いて叫んだ男性にカイは手を伸ばして起き上がらせた。
「ひさしぶりです、アッシュクロフトのカイです」
「お前か!カイか!」
男性は白髪のお爺さんだった。
「俺の昔のピアノの先生だ。代々養蜂家の家に生まれて、時々屋敷の手伝いもしてくれていたんだ。ロミィ嬢。俺の婚約者だ」
青紫の毒花に囲まれた秘密の畑で、カイはそう言った。




