23. 本当に、私の力が役に立ったの?
「母の治療費のために借金を重ね、その穴を隠すため、公使館の金へまで手をつけました。言い訳はできません」
アルノーは侯爵夫人に向き直った。
「ダイヤを盗むことだけは、計画していなかった。ですが、これがあればすべて埋め合わせられると思い、手を伸ばしました。砂糖壺へ隠したのも私です」
——どういうこと?
——アルノーには盗みに手を出すだけの切実な理由があったわ。その心の亀裂へ灰色の怪物が入り込んだ?
もしかすると。
術式の綻びは、こうやって広がるとしたら?
「心の中で、悪魔の囁きがあったんだ。一度盗んだくらいで、お前の人生は変わらない、もともとお前は立派な人間ではなかった、信用など、腹の足しにもならない、とね。今朝は本当にどうかしていた。申し訳ございませんでした。本来の私は、誰も見ていないところでも正しいことを選べる人でした」
アルノーがそう口にした瞬間、彼の足元から灰色の染みが浮かび上がった。
私は首の後ろがゾワっとして、寒気がした。カイが私の腕をギュッと掴み、私とカイはテーブルの下で手を繋いだ。カイも緊張しているのが分かった。私たちは互いの手をしっかりと握った。
人の顔にも見える染みは、長い指を伸ばしてアルノーの足首へしがみつこうとしている。乗客たちはアルノーの告白に気を取られていた。灰色の影が見えているのは、私とカイ、それに二匹の霊獣だけらしい。
フリッツが声を殺して飛び跳ねているのが見えた。
「臭い!臭い!」
彼はそう叫んでいるようだ。
アルシオンが青い閃光となって飛んできて、鋭いクチバシで灰色の影を貫いた。
その瞬間、怪物は声にならない悲鳴を上げ、窓の外へ弾き飛ばされたように見えた。
灰色の影は走る列車の後方へ弾き飛ばされ、赤黒い煙となって空中へ溶けていった。
アルシオンがアルノーの前へ飛び、じっと瞳をのぞき込んだ。
「もう、この男から、あの灰色の臭いは消えましたわ」
いつの間にか肩に乗ったフリッツも私に囁いた。
「怪物の臭いが消えた」
「アルシオン、あなた、怪物を倒したの?」
「いいえ。魔法網の中へ逃げ込んだだけですわ」
アルシオンの言葉に私はふっと息を吐いた。
アルノーはひたすら泣いていた。
「貴方、どんなに困っても、これからはその大切な思い出を忘れないで。きっと貴方をその思い出が守ってくれるわ」
私の言葉に、泣きながらアルノーはうなずいた。
「車掌、まずは取り押さえられた給仕の方を、こちらへお連れください。私たちは、あの方に謝罪しなければなりません」
車掌は私の言葉にハッとした様子で、給仕長に合図をし、給仕長はすぐに姿を消した。誤って捉えてしまった給仕を助け出しに行った。
すぐに先ほど取り押さえられてしまった給仕が連れてこられた。彼の頬には涙の跡があった。
アルノーは席を立ち、取り押さえられていた給仕の前まで歩いた。
「あなたを犯人に仕立てようとしたのは私です」
そして、全員の前で深く頭を下げた。
「私はあなたの名誉を傷つけた。どのような処分も受けます。本当に申し訳ありませんでした」
老伯爵も片眼鏡を外し、給仕へ頭を下げた。
「証拠もないまま、君を盗人と決めつけた。軍人としても紳士としても、恥ずべき行いだった。申し訳ない」
給仕も一言だけ言った。
「私は、盗人ではありません」
それまで少し離れたテーブルについて黙って聞いていたアルテンブルク侯爵夫人が口を開いた。
「事実をなかったことにはいたしません。アルノー、あなたは盗み、無実の方へ罪を着せようとした。それは償わなければなりません」
アルノーはうつむいた。
「ですが、自ら告白したことも、忘れていた誇りを取り戻したことも、私から警察へ伝えます。寛大な処分を求めましょう」
夫人はさらに言葉を続けた。
「ご家族の治療と、あなたの罪は別の問題です。治療費については、私の財団で調べさせます。処分を貴方が受けたあと、それでも外交官としてやり直したいのなら、その時は訪ねていらっしゃい。私の名刺をお渡しします」
アルテンブルク侯爵夫人は厳しい声ながらも、アルノーの目を見て静かに伝えた。
「それにしても、あなた、何者なの?実力者揃いのモンフォール伯爵家のゆかりの方とお聞きしていますが」
夫人は私に聞いたが、私はにっこりと笑って誤魔化した。
「名乗るほどの者ではございませんわ。では、皆さま、お茶の時間は楽しかったですわ。まもなく昼食の時間ですね。夜にウィーンに着くまで、列車の旅を楽しみましょう」
私は会釈をして、右肩にフリッツ、左肩にカワセミを乗せて、コンパートメントに戻った。
「ロミィの力で、アルノーは本来の自分を思い出したのよ」
「いいえ。最後に正しい方を選んだのは、アルノー自身だわ」
「そうだな」
私はイヴォンヌとカイと話しながら戻ったが、足早に二人より前を歩き始めた。
私は早く整理したかった。
「フリッツ、確かにアルノーが告白したら、怪物の臭いが消えたのね?」
「主、間違いない。急に消えた」
「エミリアのときは、人を殺しかねないほど悪意が膨らんだから、怪物は完全な姿を得た。アルノーに取りついていたものは、まだ影のままだった……。人が悪意に従うほど、怪物は大きくなるということ?」
私は早口に捲し立てるように話した。
素早くコンパートメントの中に飛び込むと、中から鍵を閉めた。イヴォンヌに見せるわけにはいかない。
「術式顕現!」
広がった術式を見て、フリッツにささやいた。
「列車周辺だけを限定して、見たいのよ」
「だったら、四十三番目を参照しろ。今主がいる場所、つまり、列車周辺だけを切り出せる」
「唱えなくてもいいの?」
「参照するだけだ。間違っても実行するなよ」
私は四十三番目の術式に触れた。
複雑に重なっていた術式の中から、列車周辺のものだけが切り出され、空中へ広がった。
「ねぇ、どうしたの、開けて!」
コンパートメントの外では、イヴォンヌが扉を叩いている。
けれど、私は目の前の術式から目を離せなかった。
アルノーが座っていた食堂車の上で、赤い花が一輪、萎れ始めていた。
「私、修復の呪文はまだ何も唱えていないわ」
「あの男が、自分で怪物を拒んだんだ」
フリッツが言った。
「主が、忘れていた温かい記憶の扉を開けたからな」
フリッツは静かに言った。
「記憶の扉を開けることは、効果があるということだな、主」
「いやねぇ、すごい力じゃない、主」
霊獣2匹は少し嫉妬したような口調で言った。
「本当に、私の力が役に立ったの?」
私は震える思いで言った。
「希望する人を集めて、この列車でもう一度お茶会を開くわ!」
「盛り上がっているところ悪いんだけど、そろそろ、主は私を解放してくれないかしら。こんな車両に閉じ込められちゃ、病になりそう」
カワセミが言った。
「アルシオン、ちょっとは空気を読めよ」
「何が?わたくしは本当の事を言っているだけでしょ」
私はデッキでカワセミを解放した。
イヴォンヌは私がコンパートメントに鍵を閉めた事を、烈火の如く怒っていた。
「心配するじゃない!まさか貴方一人で旅しているつもりになっているんじゃないでしょうね?」
——私は、人の記憶の扉を開けられるようだ。
——でも、自分の扉を閉める癖は、まだ直っていないらしい。




