19. 「君がいい」と言われた朝、元婚約者は霊獣を見て青ざめた
夜が明けようとしていて、カーテンの後ろが白んできているのが分かった。カーテンを少し開けた。コンパートメント内に据え付けの小型時計は午前四時半を示していた。
夜通し走り、列車はバイエルン西部を走っている頃だ。
なだらかな丘陵が見え、牧草地と畑の間に朝霧が立ち込め、その向こうに白壁の家々や教会の尖塔が見えた。
午前七時頃には、列車はミュンヘンで作業停車するはずだ。新鮮な空気を吸いに降りて、駅の売店で新聞を買おうと思った。カイはアッシュクロフト領とテレグラフで連絡を取ると話していたし、一緒に降りるだろう。
昨日、八芒星が現れたあたりを私は凝視した。私のことはまだバレていないようだ。だから、何も連絡がないのだろう。
ついに林の端から、太陽の赤い光が差し始めた。太陽はあたりを燃えるように赤く染めながら姿を現した。
列車が進むにつれ、南の地平には、アルプスと思われる青い稜線が、霞の向こうにわずかに浮かんでいるのが見えた。
——神様、お許しください……。
——必ず、術式の綻びを修復する方法を見つけ出しますから、私のしでかしたことをお許しください。
——人々の役に立てるか分からないのですが、私の力を人を幸せにする方向で使いますから、しばらくお待ちください。
私は雄大な景色を見ながら、心に願った。
「イヴォンヌ、起きて」
私は寝台車で寝入っているイヴォンヌを起こそうとした。だが、起きてきたのは、衣装ダンスの扉を開けて出てきた霊獣リスだった。
「主、早いな」
「今なら、食堂車を独り占めできるかもしれないわ、きっとサロンみたいになっているでしょう?」
「あぁ、でも皇女の紋章は外した貴族令嬢のドレスで行かないとダメだ。メイドにはそんな特権は与えられないだろうから」
「分かっているわ。着替えるから、フリッツは窓の外の景色を楽しんでいて」
「分かったよ、おいらにクルミかヒマワリの種かニンジンの朝食はあるのかな」
「もちろんよ」
私の目の端に、列車が小川を越えた瞬間、水面から青い鳥が飛び立つのが見えた。朝日を受けた背が、宝石のように一度だけ光る。
「カワセミだな」
フリッツはボソッと言った。
「主、事件が起きているようだぜ」
私は何のドレスを着るかで頭がいっぱいで(なぜならジュリアンがまたいたら、今度こそ堂々と渡り合うつもりでいっぱいだったから)、フリッツの言葉を頭の隅で聞いていただけだった。
「そうね、これ以上起きても何も驚かないけれど」
素早く洗面台で冷水で顔を洗うと髪を整えた。
薄手サージのピーコックブルーのツーピースを選んだ。立ち襟と胸元に、アイボリーの細かなピンタックが入っていて、顔周りが明るく見える。ジュリアンに会っても、今度こそ俯かない。そのための鎧を選ぶように、私はピーコックブルーのツーピースへ袖を通した。
小ぶりなバッスルが後ろにあり、腰に細い琥珀色のベルベットリボンが付いていて、おしゃれだ。
ブルネットの髪を低い位置で柔らかくまとめて、琥珀色のリボンで巻いた。冷水で洗った頬と艶やかな髪そのものを生かして、非常に清潔だし、頬はうっすらとピンクがかかっていて血色が良く見える。
——毎日皇宮を歩き回って運動した成果だわ。
机の上に、イヴォンヌに宛てて短いメモを置いた。
「食堂車まで散歩してくるわ」
「フリッツ、行くわよ」
「おう、いざ、食堂車へ!」
私はフリッツを肩に乗せて、コンパートメントを出た。
——そういえば、フリッツは何か言っていなかったかしら。
「あっ!ロミィ!」
ブロンドの髪を無造作に散らしたカイに遭遇して、私はドキッとして立ち止まった。カイの服装は、白い襟もブルーグレーのタイもきちんと身につけていたが、上着の前は開いたままで、片方のカフスを歩きながら留めているところだった。ネイビーブルーの上着は開けたままだ。
「おはよう、ロミィ。食堂車に行くところ?」
「えぇ、まだ誰もいないと思って」
「俺も君がそうするかなと思って、食堂車に行くところだった。フリッツもおはよう」
「お、カイ、いてくれると助かる」
短くフリッツは答えた。カイとフリッツは、きっとジュリアンに遭遇した時のことを警戒しているのだろう。
私とカイは連れ立って食堂車に行った。
早朝の食堂車には先客はいなかった。私たちは昨晩サロンとして活用されたらしい食堂車のソファ席に座り、遅れてやってきた給仕に紅茶と薄切りのトーストに苺ジャムを添えた簡単な朝食を出してもらった。ゆで卵もつけてくれた。
フリッツはひまわりの種とニンジンのかけらをもらって大満足していた。
「ミュンヘンで、降りるわよね?」
「あぁ、テレグラフで、婚約を申し込みたい女性を連れて帰る、と両親に連絡する」
「まだ婚約者ではないわ」
「今はね」
私はその言葉に真っ赤になった。
「ね、カイ、本当に私でいいの?」
「ロミィ、君がいいんだ。砂漠で月を見ながら話しただろう? 金環日食を見に行った時から、俺の心には君がいた」
カイは少しだけ笑った。
「何度聞いてもいい。答えは変わらないから」
セント・エントン王立学院のスターであるカイ・アッシュクロフトにそう言われると、一緒に怪物を退治した仲間だと思い直しても、ふわふわとした心地になった。
「兄のアダムをご存知?」
瞬間的に、カイの顔が曇ったのが分かった。
「よくないよね。何度かあいつらを止めようとしたんだが、君のお兄さんに酷いことをしている奴らがいるのは知っている。必ずやめさせるよ」
「昨日、テレサが教えてくれたの。あの怪物が出て相対したことで、聖セレスティーヌ女学院もエントン学院も、私たちが休暇を2週間取ることを了承したんですって。ディアーナ姉様とルイ兄様が取り計らってくれたのだと思うけれど」
「うん、イヴォンヌからも昨日聞いたよ」
「だからね、あの昨夜のお店の話だけれど……アッシュクロフト領でお店を開いてみたいのよ」
私は言葉を続けるのをためらった。
——いきなり、アッシュクロフト領地では嫌だと言われたら、どうしよう。
「早速だな。賛成だ」
「本当に、アッシュクロフト領でいいの?」
「君が俺の領地を選んだのに、俺が断ると思う?」
カイは当然のように笑った。
「店を開く場所は君が決めて。土地と建物のことは、俺に任せてくれ」
カイが私を見つめた。彼のブルーの瞳が私の心を射抜くようだ。
心臓がドキっとした。
「ありがとう」
私はそれだけ言うのが精一杯だった。
——ジュリアンは、偽りの誓いをしていた。カイの本心は本物なのだろうか。
不安が過ぎる。目の前の食卓では、フリッツが無心にひまわりの種をかじっていた。ふさふさの尻尾がゆらゆら揺れている。
「主、余計な事を考えるな」
フリッツの小さな声がした。ひまわりの種をかじりながら、丸い瞳が私を見返した。
カイは朗らかに笑った。
「俺もイヴォンヌも、君の力が人を救うと信じている」
私の心臓はコトっと音を立てた。
——絶対に恋に堕ちてはいけないのよ。冷静にならなきゃダメなのよ……それなのに。
私は自分の気持ちを戒めようとして、抗うのは難しいと思った。
「アッシュクロフト領に戻ったら、村にお店を開こう。おばあちゃんにも相談しよう。絶対に協力してくれる。アッシュクロフト領なら、おばあちゃんの焼き菓子も出せるしね。そうだ、ミュンヘンで降りた時にテレグラフする祖母宛ての電文を考えた。村の空き店舗を探してもらおう」
カイは活き活きした様子で話した。
フリッツは食卓の上で横転したり、皮肉を言ったり忙しかった。カイがうっかり、「フリッツは食べ物を出せないの?」と無邪気に聞いた時は大変だった。
フリッツはむくれて、一人で窓枠に座り込み、背中を落としてアルプス山脈を見ていた。
そばに寄ると、「アルプス山脈なんか消えちまえ」とかぶつぶつ呟いていたので、私は慌てて給仕にリンゴをもらって機嫌を取った。
この列車は夜にはウィーンに着く。そこからアッシュクロフト領には普通列車に乗り、さらに馬車で数時間進み、真夜中過ぎに屋敷に着くことになっている。
時刻は五時半になっていた。六時半まで私たちは食堂車でおしゃべりをしていた。フリッツは皮肉をやめないし、イヴォンヌも合流してそれはそれは賑やかな朝食になった。
レイトンとテレサとミラのための朝食を特別にコンパートメントまで配膳のお願いをして、私たちはやがてゾロゾロと朝食を食べにやってきた貴婦人や紳士の集団に押され、隅に追いやられた。
私が皇女であることは秘密だし、私は二年間も引きこもっていたので、最近の私の姿を見て私がザックリードハルトの皇女であることが分かる人は、ジュリアンを除けば、いないようだった。
そして、その時は、突然やってきた。
私の元婚約者のジュリアン・エドワード・ヴェインが現れたのだ。
——来たわ!
私の隣にいるカイ・アッシュクロフトを見て、彼は目を疑ったように二度見した。
ジュリアンの顔から、すっと血の気が引いた。私の肩から、フリッツの尻尾がのぞいていたからだ。
そのとき、食堂車の入口で誰かが息を呑んだ。
カルメンとリゼットが立っていた。
二人の視線が、ジュリアン、カイ、そして私の間を何度も往復した。
リゼットの扇が、ぱたりと閉じた。
カルメンは珍しく絶句していたが、やがて無言で手帳を開いた。
だが、彼女の唇が動いた。今日も、声に出して書いている。
「皇女殿下、元婚約者と新しい婚約者に挟まれ、早朝の食堂車で鉢合わせ……」
「ちょっと、何を書いているの!」
ジュリアンが、掠れた声で呟いた。
「……新しい婚約者?」




