20. 私を捨てた元婚約者の前で、侯爵令息が私の肩を抱いた
カイはイヴォンヌの目配せで、すぐにジュリアンへ気づいた。 私の方へそっと身を寄せ、耳元に囁く。
「ロミィ、こっちを見て」
私たちは、数秒間黙って見つめ合った。
時が止まったかのようだった。私は無意識に息を止めていた。
スッとカイの手が私の髪に触れ、にっこりと彼が笑った。さすがセント・エントン学院一のスターなだけあり、彼はオーラ全開で私を見つめた。
さりげなく、アッシュクロフト家の紋章が金箔で刻まれた、パリの一流工房への特注品の指輪が私の目の前で揺れた。これみよがしに、ジュリアンに自分自身の家の財力を誇示したのだ。ジュリアンの目が細くなり、値踏みするようにカイを見たのが分かった。
「カイ、やりすぎるな。あいつは挑発するとヤバいから。ロミィには手を出せないのは学習したが、君に何をするか分からない。アッシュクロフト領の方がヴェイン家より数千倍規模で大きいのは、流石に分かるだろ」
フリッツは追加でもらったブロッコリーをかじりながら、言った。
目の玉が飛び出しそうなほどジュリアンが驚いたのが分かった。特に、アッシュクロフト家を誇示する指輪の特徴的な紋章から目が離せないようだった。
私に私に価値がないとみなしていて、私に偽りの誓いをしたジュリアン。
私の、本当に小さな力を認めてくれたカイ。
ジュリアンはやがて目を伏せて、唇をわずかに歪めた。
「コーヒーとブリオッシュ、それからスクランブルエッグをお願い」
隣の席から上品な声がして、私たちはそちらに注意を向けた。
「あら、アルテンブルク侯爵夫人、おはようございます」
「おはよう、イヴォンヌ嬢、カイ」
にこやかにイヴォンヌとカイが侯爵夫人と挨拶を交わした。夕食の席で知り合ったようだ。
アルテンブルク侯爵夫人の喉元には、八条の光を放つ星形のダイヤが留められていた。車体が揺れるたび、白、青、蜂蜜色の閃きがキラキラと輝く、特別なダイヤだということが分かる。侯爵夫人が身につけている黒葡萄色の薄手の絹混ポプリンのドレスによく映えて、ダイヤは特別な輝きを放っていた。
イヴォンヌとカイは次から次に食堂車に現れる紳士やレディを私とフリッツにこっそり教えてくれた。
銀の片眼鏡をかけたチャコールグレーのラウンジスーツを着た退役軍人の老伯爵に、アルノー・ド・ヴェルニエという名の二十九歳の、どこかの国の公使館の二等書記官、茶褐色のツイード製旅行ジャケットを着た医師に、薄紫がかった灰色のドレスを着た若い未亡人に、ローズグレーのドレスを身につけた裕福なアメリカ人令嬢、濃紺のサージドレスを着た三十歳ぐらいのアルテンブルク侯爵夫人付きのレディズ・コンパニオン――話し相手と旅の付き添いを務める良家出身の有給婦人がいた。
彼らは自然に朝食を頼み、食べ始めていたが、場違いなほど存在感があるのはアルテンブルク侯爵夫人のダイヤだ。
「まずい、そろそろ7時だ」
カイがそう言って、私たちは席を立った。私たちは皆に挨拶をして席を立ち、食堂車を後にした。
ジュリアンはフリッツの姿が私のドレスの端から見えると、ひぇっと声にならない悲鳴をあげて、テーブルの席に両手を隠した。彼が食べていたロールパンが転がったのを見て、彼の慌てようが分かった。
ジュリアンの席のそばを通る際、カイはあからさまに私の肩を抱くような仕草を見せた。
ジュリアンは真っ赤な顔をしていて睨んでいたが、彼は私に偽りの誓いをした人物だと分かり、私の心は冷え切っていた。
——高い勉強料だったけれど、貴方がどういう人物かよーく分かったわ。
私は心の中でそう思って彼を振り返りもしなかった。
私はテレサ、ミラ、レイトンにも声をかけて、ミュンヘンで列車を降りた。夜にウィーンに着くまでは、長めの作業停車はもうない予定だった。
朝7時のミュンヘンの空気はとても気持ちよく、ホームの売店で到着したばかりの朝刊を買った。私の記事が出ていないことを確認してホッとした。
王立魔術博物館は、事の経緯を内緒にしているらしい。
——結界が緩んだと知らせるわけにはいかないものね。大騒ぎになるもの。
私は自分に辿りつけていないようだと分かり、ホッとした。
テレサ、ミラとイヴォンヌと私は、ホームを端から端まで探索した。ミュンヘンでは三十五分停車すると告げられ、乗客たちは次々とホームへ降りてきた。揺れ続ける床から動かない石の床へ足を移すと、それだけで身体が軽くなったように感じる。
機関車の周囲では、煤にまみれた作業員が忙しく動いていた。焼きたてのパンを入れたカゴや牛乳缶や食料も運び込まれていた。
カイとレイトンは、テレグラフを打ち終えたようで、遅れて私たちの散策に合流した。
悲鳴が聞こえたのは、皆が車両に戻り、それぞれのコンパートメントに戻ったその時だった。
列車は既に出発していた。
コンパートメントから次々に人々が顔を出し、悲鳴は何事かと顔を出した。
「ダイヤがないわ!」
アルテンブルク侯爵夫人の悲鳴が、ミュンヘンを発って走り始めた寝台列車に響き渡った。夫人が 青ざめた顔でコンパートメントから飛び出してきた。喉元に輝いていたはずの星形のダイヤが消えている。
「ダイヤが盗まれたのだわ!」
アルテンブルク侯爵夫人の付添夫人が叫んだ。
乗客たちはギョッとして固まった。列車はすでに速度を上げ、ミュンヘンの街を後方へ置き去りにしていた。
そのとき、私のコンパートメントの窓ガラスを鋭く叩く音がした。 青い鳥が、走る列車と並んで飛んでいる。
——今朝のカワセミ?
フリッツが鼻をひくつかせ、全身の毛を逆立てた。
「主。ダイヤだけじゃないぞ」
「何が?」
フリッツは、乗客たちが並ぶ廊下を睨んだ。
「一昨日の化け物と、同じ臭いがする」




