2. 生卵と、皇女の意地
*その日の朝の聖セレスティーヌ女学院*
ぐしゃり、と背中で何かが潰れた。
肩甲骨の間から腰へ、冷たいものがゆっくり流れていく。
「あら?」
エミリアの意地悪な声がした。
「今日はアッシュクロフト様がお見えになるのに、本当に残念ねぇ」
クリーム色のモスリンを、黄色い卵の黄身が伝っていた。
足元には、割れた殻が落ちている。
——またやられた。これで二度目だ。
私の背中をいじわるな声が追いかけてきた。
「アッシュクロフト様が、昨日、あなたの名前をお尋ねになったそうね」
私は思わず振り返った。
「私の名前を?」
「でも、そのドレスでは、今日の合同舞踏授業には出られないでしょうね」
後ろから意地悪令嬢のエミリアの鋭い声が追いかけてきたが、私は無視した。
カイ・アッシュクロフトにエミリアが恋焦がれているのは周知の事実だった。
昨日、彼が私の名前を尋ねた。
それだけで、エミリアにとっては私を敵と見なす十分な理由になったらしい。
ついこの間まで引きこもりだった根暗の私は、社交界デビュー前から変わり種レッテルを貼られていた。
さらに悪いことには、引きこもりを返上してこの聖セレスティーヌ女学院に通い出したら、同級生にいじめられた。
「ジュリアン様に捨てられたのに、今度はアッシュクロフト様?」
背中を流れる卵より、その言葉の方が冷たかった。
耳の奥がシーンと静まり、聖セレスティーヌ女学院の正門に次々と入ってくる馬車の喧騒が全て消えた。
鼻の奥がツンとした。
目の奥が熱くなって、涙が込み上げた。
ドレスのライラックのリボンにも黄身がかかっている。
——最悪……っ。
白い皮手袋に卵の黄身がつくのが嫌で、そのまま生卵の黄身が流れ落ちるがままにした。
卵の殻が、足元に崩れ落ちるように転がっているのが見える。
私は無言で振り返り、麦わら帽子の下から、冷たい視線をエミリアにじっと投げた。
——生卵のお返しが冷たい視線だけ……。
——何と大人な振る舞い……って。
——そんなわけないでしょう!?
初夏の爽やかな空気が台無しだ。
私はサッと辺りを見渡した。
私とエミリアの間の騒ぎは誰にも気づかれていない。
引き続き、何事も無いかのように聖セレスティーヌ女学院の正門からは、続々と貴族令嬢を乗せた馬車が入って来ていた。
馬が石畳を歩く蹄の音、馬車が軋む音、貴族令嬢とメイド達が馬車から次々と降りて学院に向かうざわめき……。
誰も、私がエミリアに、また生たまごをぶつけられたことに気づいていない。
いつもの朝の喧騒が聖セレスティーヌ女学院を満たしている。
——騒ぎになるのは嫌。
——皇女の私が生卵をぶつけられたなんて……他の誰にも見られたくない。
私は毅然とした態度で笑みを浮かべた。
唇の端が震えたが、きゅっと口角をあげてごまかす。
青空の下で、皇女の私は、ドレスに卵をぶつけられても毅然としていなければ。
——ただの意地悪貴族令嬢なんかに負けるものですか。
そのまま無言で木陰の方にまっすぐ歩く。学院の庭園に続く小道がある。このまま、庭の井戸にまっしぐらに進もう。
その時、エミリアの意地悪な声が私の背中を追いかけてきた。
「その格好で、アッシュクロフト様にお会いになるおつもり?」
私は一瞬、身をすくめたが、そのままライラックの花の木陰に身を隠すようにして歩き続けた。
卵の黄身をつけた皇女と、藤色のライラックの木陰は似つかわしくない。でも、今は仕方がない。
糸綴じノートと金属ペンを収めた濃紺の革製の書類鞄が盾だ。
私は濃紺の書類鞄を背中へ回した。
ひどく不自然な持ち方だったが、卵の染みを隠す盾にはなる。
目頭が熱くなった。
「お庭に退散ですかぁ?」
再び、エミリアのバカにしたような、頭にくる声が遠くから聞こえた。
無視するしかない。
生卵をぶつけたのはエミリアで、彼女がなぜ私を目の敵にしているのか分からない。
栗色の髪にエメラルドの瞳のエミリア・デ・アルバは、私を見つける度に何かと仕掛けてきた。
社交界デビュー前の私たちにとって、これほど無意味なことはないと思うのに、エミリアは自身の評判がどうなるかは気にせず、ひたすらに私を目の敵にしていた。
——エミリアったら、何が残念なの……?
——どうせ、彼女の狙いはカイ・アッシュクロフトに無惨な私の姿を見せつけるのが、狙いに違いないわ。
イライラしてきた私は、悔しさのあまりに鞄を持つ手が震えた。
エミリア・デ・アルバ。レスパーニュ—— 王家に次ぐ格式を誇るアルバ公爵家の令嬢だ。つまり、彼女はスペイン王国屈指の大貴族の令嬢となる。
退屈を持て余しているのか、エミリアは私へのイジメをやめない。
今日は、カイ・アッシュクロフトが聖セレスティーヌ女学院を訪ねて来る日だった。
エミリアが熱を上げているカイは、大貴族中の大貴族、アッシュクロフト家の御曹司だ。
それだけでなく、輝くような美貌の持ち主で、ヨーロッパ中の貴族令嬢の心を独り占めしているかのような十代だ。
早く、スペインに戻ればいいのに、憧れのカイ・アッシュクロフトがすぐ近くの王立エントン学院に通っているのをいいことに、エミリア・デ・アルバはザックリードハルトの聖セレスティーヌ学院に留まっていた。
彼女の望みは、ただ一つ。
憧れのカイの心を得る事だ。
それが簡単にできるなら苦労はしない。
それこそ残念なことに、カイはエミリアを見向きもしなかった。
皇女というのは、不思議な生き物だ。
生卵一個のことでエミリアを公然と責めれば、ザックリードハルトとレスパーニュの大貴族を巻き込む騒ぎになる。
けれど、黙っていれば、私はただの臆病者になる。
だから私は、皇女らしく笑って、書類鞄で卵の染みを隠した。
私はロミィ・ロクセンハンナ。聖セレスティーヌ女学院に通っている15歳。ザックリードハルトの皇帝の長女だ。
私が引きこもりをやめたのは、二番目の兄である十六歳のアダム・ロクセンハンナが理由だ。
王立セント・エントン学院に通っているアダムは、ロクセンハンナ家の変わり種の異名を持つ私と同類だ。アダムは世界中のエリート貴族子弟がこぞって通うエントン学院で、いじめられていた。
隙を見てアダムをいじめる奴らをやっつけようと思って奮起して引きこもりをやめた。
だが、気づけば、いつの間にか自分もいじめの標的にされていた。
——情けない……。
自分に腹が立つ。
自分自身に頭に来る。
自信の無さと出遅れたという羞恥の気持ち、社交界にデビューするのが恐ろしいのに、皇女である立場から逃れられない絶望感……。
卵を投げつけられた事で、自分を不甲斐ないと思う気持ちに、いつも以上に余計に打ちのめされた。
——だめ!
——考えるのをやめなさいっ!
「一体何がしたいのか言って!」
自分の頭に向かって言うと、頭の中がシンと静まり、空っぽな空間が頭に広がっているのが分かる。思考が止まった。
「そう!私がすべきことは一刻も早くドレスを洗うことよ!」
生卵をドレスから洗い流さなければならない。
私は気を取り直して、その一点に集中した。
庭園の井戸まで走った。
今朝、メイド達を皇宮に置いてきたことが悔やまれたが、後の祭りだ。
——シフォンのドレスではなくて本当に良かった!
私は素早く周囲を見渡して、誰にも見られていないと思ってドレスを脱いだ。
——シュミーズとドロワーズ姿だけれど、もう知らない。
——男子生徒が到着するまで、まだ少し時間があるはずよ。
——たぶん。
——女子に見られたって、もうかまうもんですか。
冷たい井戸水の中で、黄色い染みを揉み洗いした。
兄のアダムをいじめる者から守ろうと思って二年間の引きこもりをやめたはずが、それなのに今は、自分がぶつけられた卵を、下着姿で洗っている。
——何をしているのよ、私は?
水を絞って、日当たりの良い枝木の上に濡れたドレスを広げた。
——午前の授業はサボる。決めたわ。
先生達はきっと私を探しているだろう。でも、ドレスが乾くまでは、私は姿を現せない。
——仕返しの一つぐらい、きちんと計画を練らなければ、気分が収まらないわ。
——王立魔術博物館で見た『闇の禁書』の記憶を使ってやるわ。
——神様、聖セレスティーヌ様、お許しください……。
——えっと……思い出せない!?




