1. 覚えていなくても、俺が覚えている
「ロミィ嬢、大丈夫か?」
その声に引き戻されるように、私は目を開けた。
目の前の彼の額には汗が浮かび、私の頬へ伸ばした指が小さく震えていた。
ブロンドの髪の間から、青い瞳が真っ直ぐに私を射抜いていた。
ザックリードハルトの青い空を背景に、風が彼の髪をさっと揺らす。眩しい、と思った。
——この人、誰?
——もしかして……カイ・アッシュクロフト?
大貴族アッシュクロフト侯爵家の嫡男、その人が私の隣に座って、私の頬に手を伸ばしている。
ドレスが風に激しくはためいた。
心臓の音が、風の音より大きい。
——これは、一体どういう状態なの?
生まれながらにして向かうところ敵なしのスターが、カイ・アッシュクロフトだ。
隣接する二つの学院には、家格とは別の序列がある。成績でも身分でもなく、人気と噂だけで決まる序列だ。その頂点が、彼だ。
セント・エントン王立学院のスターであるカイ・アッシュクロフトと私は、空中に浮いていた。
長椅子に乗って。
彼と一緒にいるところを見られたら、婚約を破棄されたのに、また次の婿候補を捕まえた、と噂されるだろうか。
太めで不器量、何の取り柄もない私を、彼が気に入るはずがない。十三歳で一方的に婚約を破棄されて以来、ショックのあまり、二年間も引きこもっていた。
なのに、なぜか学院一の人気者と空を飛んでいる。
引きこもりをやめ、さらに朝夕に皇宮を歩き始めて四十日。それだけで学院一の人気者と空を飛ぶようになるはずがない。
聖セレスティーヌ女学院の上空で、私は混乱していた。
すると、カイがそっと私に顔を寄せた。
「そんな大きなドレスで、よく軽やかに飛べるね」
耳元で囁いたあと、カイは照れたように目をそらした。
——今のは、私を褒めたの?
——それとも、ドレスを褒めたの?
ブロンドの髪からのぞいた耳が、少し赤くなっていた。
何がどうなっているのか分からない。
——そうだ。今朝、私はエミリアに生卵をぶつけられたわ。
庭でドレスを洗ったことも覚えている。
でも、そのあと、私は何をした?
思い出そうとすると、頭の中に黒く塗り潰されたような空白があった。
記憶がないことさえ、私は反射的に自分のせいにしそうになった。
何もできていない日々が繰り返される。
今日も失敗したのかもしれない。
そんな声が、また頭の中で聞こえた。
——違う。
——そんな日々には、さよならを言いたい。
私は無言で空や眼下の世界を見つめた。
——涙よ、引っ込んでちょうだい。
しばらくあたりを見渡していた私は、あることに気づいた。
眼下を見下ろすと、誰か女性が倒れていた。
眼下には、聖セレスティーヌ女学院の令嬢たちが集まっていた。
その中には、セント・エントン王立学院の男子生徒の姿もある。今日は両校合同のダンスクラスの日だったのだ。
——あの序列の、最下位は、たぶん、私だ。
——最下位と頂点が、今、全員の頭の上を並んで飛んでいる。
色鮮やかなドレスの中心で、ひとりの女性が倒れている。皆、ひどく動揺していた。
医師がやってきて、倒れている女性を診察しているように見える。
「倒れているのは、誰?」
「エミリアだ」
カイが答えた。
「君を窓から突き落とした本人だよ」
——私を、窓から?
私は驚き、長椅子を地上へ降ろそうとした。
その時だ。
「主、まさか、さっきのことを忘れたのか……?」
小馬鹿にしたような嫌味な声がして、私は自分の膝の上を見た。
「……きゃっ!」
「何がきゃっだよっ」
クリーム色のモスリンのドレスの上には、つぶらな瞳のリスが座り込んでいて、私の方を上目遣いに見て、不満げに首を振った。
「ちっちっちっ。浅はかな主じゃのう」
——なによ……このリスは何者……?
リスが飛び上がって、私の頬をペシペシ叩いて、再びモスリンのドレスの上に着地した。
「いたっ」
どう見ても、普通のリスではなさそうだ。
——何がどうなってこうなったの……?
——霊獣?
「誇り高き霊獣の香リス、フリッツだ。召喚しておいて忘れるとは、薄情な主だな」
「あ……!?」
私の脳裏に何かが去来した。
——でも……よく分からない……。
私は肝心な所を覚えていなかった。
ただ、セント・エントン王立学院一の大人気者であるカイ・アッシュクロフトは何もかも覚えているらしく、妙に馴れ馴れしかった。
「覚えていなくても、俺が覚えているから大丈夫」
力強く断言され、霊獣らしきリスが「ヒューッ」と冷やかしの声を上げた。
私はどういう事か分からず困惑した。
「何を?」
「君のそばにいると、忘れていた大事な自分を思い出せること」
カイは一度、息を止めた。
「俺が君と婚約したいと言ったこと」
——はい?
——新手の詐欺でしょうか。学院一のスターが私と婚約したいのですか?
——今日の私に、一体何が起きたの?




