17. 偽物
「フリッツ、言ってちょうだい。ハリネズミとジュリアンも言っていたわ。でも、何のことかまるでわからないのよ」
緑豊かな森を縫うように流れる川がキラキラと日の光を反射して輝く様を見つめながら、私はフリッツに言った。
まもなく、地平線の向こうに太陽が沈むだろう。遠くの山の上の空がうっすら桃色に染まり始めていた。森の向こうには、小麦畑に覆われた平原が広がっている。
「主、ハリネズミは霊獣だ」
私は黙り込んだ。
——どういう意味?
「なぜ、ジュリアンが霊獣のハリネズミの話なんか……」
——待って?
待って待って待って!?
「主、目が回る!長椅子がぐるぐる回転しているぞぉっ!落ち着け!」
私は無意識のうちに長椅子をぐるぐると回転させていた。
自分が疑わしい存在に思えた。
「ちょっと待って」
「主、目が回る…」
「私が『闇の禁書』の一文を唱えたのは、初めてじゃないってことなのね!?」
私の頭の中に白い背にポツポツと銀色に光る針を持つ、可愛らしい姿が浮かんで消えた。
小さくて丸いハリネズミ。
普段は針を寝かせて丸まっているが、驚くと一瞬で針が全部立った。
袖の中へ潜り込み、ときには手のひらで、白い小荷物のように丸くなっていた。
——今のは何なの?
「……スピカ?」
私は頭に浮かんだ名前を言った。
悲しくて切ない思いが込み上げて、目に涙が勝手に浮かんだ。
「そう、霊獣ハリネズミの名前はスピカだ」
「……私は、十三歳の時に『闇の禁書』の覚えていた一文を唱えたのね」
気持ちが深く沈んだ。
——なぜ思い出せなかったのだろう。
名前とおぼろげな姿以外は、全く思い出せなかった。
「主は寝ぼけて、寝ながら唱えたらしい。無意識だ。でも、俺の時のように、霊獣ハリネズミが召喚された」
私は黙り込んだ。
「スピカは、誓約を守る霊獣だ。婚姻、主従、商取引——誰かと誰かが約束を結ぶとき、その誓いが本物かどうかを見分けるんだ」
——誓いが本物かどうかを見分ける霊獣?
——ということは……?
「銀針のスピカ……私の袖から転がり出して……」
今度はフリッツは黙った。
私が思い出すのを待っているらしい。
涙に濡れた頬に風が当たり、私は耳元で風の音が強くなったように思った。
耳奥で轟音が鳴り出すような感じがする。
真相に近づいているのが分かる。
「婚約契約書が偽物だったって言ったでしょ。スピカが偽物に変えたの?」
「違う。契約書が偽物だったんじゃない。そこに記されたジュリアンの誓いが偽りだった。スピカがそれを暴き、婚約契約を成立させなかったんだ」
——婚約契約書が偽物だった理由は、ジュリアンの誓いが偽りだったから?
「では、ジュリアンが私を好きだと言ったことも、全部嘘だったの?」
フリッツは、すぐには答えなかった。
「それは違う」
「違うの?」
「誓いが偽りだったことと、あいつが主を好きだったことは同じじゃない。スピカが拒んだのは、あいつの気持ちじゃない。好きな相手を利用しようとした、その誓い方だ」
胸の奥が、ひどく痛んだ。
「好きだったのに、私を利用しようとしたの?」
「そうだ。あいつは主が好きだった。だが、主を幸せにすることより、主の力で自分が何者かになることを選んだ」
フリッツですら、私を気遣って、ジュリアンが私を好きだったなんて、嘘をついてるのだわ。
「そんなことがあるの?」
「ある。人の気持ちは、ひとつじゃないからな。好きだから大切にする者もいる。好きだから、自分のものにしていいと思う者もいる」
意味がまだ分からない。
「スピカは主を守ろうとしたんだ。そして、主の辛い記憶を閉じようとした。だから、主はスピカの事を覚えていない」
私は泣いた。
「一方的に婚約破棄されたと思っていたけれど、霊獣を召喚して、霊獣が私を守ろうとして婚約させるのを止めたということね……」
「それだけじゃないんだ。スピカの銀針は、偽りの誓いを立てた者に反応するんだ」
フリッツは続けた。
「ジュリアンが婚約契約書に触れた瞬間、針が両手に刺さった。偽りが深ければ深いほど、熱も毒も強く回ることになる。ジュリアンは高熱を出して寝込み、死にかけた。自分が偽りの誓いを立てたことを話せば、なぜ銀針に罰されたかまで明らかになる。そして、何も言わずに逃げた」
あぁ、そうか。
「だから、さっきフリッツを見た時に顔色が変わったのね。また、私が霊獣を呼び出したと思ったからね」
フリッツは頷いた。
「契約書には、スピカの銀針の痕跡が残っていた。偽りの誓いが拒絶された印だ。だが、俺はスピカに話を聞いた訳でもない。だから、スピカがジュリアンの心に何を見抜いたかまでは、分からない」
私は一方的に捨てられたのではなかった。
まぁ、それより悪い気がしなくもないけれど。
けれど、守られたとも知らされないまま、二年間も自分を責め続けた。
——どうして、誰も教えてくれなかったの?
ディアーナ姉様もルイ兄様も、何度も「あなたのせいではない」と言ってくれた。
けれど、理由だけは教えてくれなかった。私はその言葉を信じられず、自分に価値がないから捨てられたのだと思い込んだ。
その思いが私の頭をおかしくさせそうだった。
事実は、私の価値がなかったから婚約を破棄されたのではなかったようだ。
別の意味で価値があるから、利用されようとして、霊獣がそれを見破ったということかしら。
——『闇の禁書』の呪文を使ったと私に悟らせるわけにはいかなかったから、ディアーナ姉様とルイ兄様は黙っていたのね。
「主、あいつは主が関わらない方がいい相手だ」
「ジュリアンの本性を見抜いて、婚約を無効にして私を守った、か……」
私は恩人であるハリネズミの姿と名前以外、何も思い出せなかった。
「帰るわよ、フリッツ」
「おう、主、それがいい」
夕日はとてつもなく美しかった。
私の辛い記憶は、自ら消えた霊獣ハリネズミによって守られた結果のものだった。
辛い記憶の背後には、あの夕陽のように熱い、私を守ろうとする思いがあったのかもしれない。そう思うと、私は涙を拭って前を向くことができる気がした。
「主、主は扉を閉める側じゃない。開ける側だぜ」
「フリッツ、どういう意味かしら?」
「他人が忘れた記憶の扉だよ」
霊獣香リスは、私の耳元で囁いた。
私はまだその意味は分かっていなかった。
デッキに戻った私は、飛ぶ長椅子を皇宮に戻した。さっと手を上げて合図をすると、長椅子はシュッと音を立てて姿を消した。
「私は伝説のブルクトゥアタなんでしょ、もう前を向くわ。他人に私の価値を決めさせないわ」
「主、スピカが草葉の影で泣いてるぜ」
「スピカは生きてるでしょ、まるで死んだみたいな言い方しないでよ」
「……それが、スピカは……」
私は肩に乗っていたフリッツをじろっと睨んだ。
「フリッツ、嘘を言うと、二度と長椅子に乗せてあげないわよ」
「バレましたか。はいはい、スピカ様はお元気でございますよ」
「では、呼べば会えるの?」
「俺とは違う。あいつは誓約に呼ばれる霊獣だ。主が呼べば、いつでも来るわけじゃない」
私は背筋をすっと伸ばして深呼吸した。
誰かに守られていたなんて、あの辛い記憶の背景を知らず、私は自分を卑下して、他人の価値観を自分の心に塗りつけ、自分を苦しめた。
もう二度とそんなことはしない。
「ちょっと!ロミィ!テレサたちが心配して呼びにきたのよ」
「ロミィ、大丈夫か?」
イヴォンヌとカイ・アッシュクロフトが私に飛び付かんばかりにして走り寄ってきた。
「大丈夫よ。ちょっと空の散歩に行っただけよ」
「今度、あいつがやってきたら、フリッツ、俺に知らせてくれ」
カイはフリッツにお願いした。
「もちろん。初めて会ったが、あんな胸が悪くなるような輩は、俺様もごめんだ」
「明日の夜にこの寝台列車を降りるまでは、コンパートメントから出る時は君のそばに一緒にいるよ」
「あら、私もそうするわよ」
フリッツとカイとイヴォンヌは、固い絆で結ばれた仲間のように結束したようだ。
私はイヴォンヌとカイ、待っていてくれたメイドのテレサたちに囲まれ、寝台車のコンパートメントへ戻った。
モンフォール家の名前で、寝台車両の一角は貸切にされていた。
「いつかスピカに必ず会うわ。私を守ってくれたお礼を言いたいもの」
フリッツはすぐには返事をしなかった。コンパートメントの窓から飛ぶように流れていく田園風景を見つめた。
そして、夕日の向こうへ目を細め、静かに言った。
「会えるさ。主のそばに、もう一度“偽りの誓い”が現れた時にな」
まるで、“偽りの誓い”がすぐ近くに来ているかのように、フリッツは言った。




