16. 君は……また……!?
フリッツが私の肩に乗った。私の耳元に両手を添えて、秘密の話を囁こうとした、その時だ。
フリッツの囁きは途中で中断された。
「ハリネズミの……」
——ハリネズミの?
私の頭に一瞬何かが去来した。ただ、それはコンパートメントがノックされた音でかき消された。
「はい」
「ロミィ様、昼食をお持ちしておりますが、召し上がりますか?」
メイドのテレサだった。
「ありがとう!」
銀の蓋を取ると、冷製の若鶏に透き通ったアスピックが添えられていた。バスケットには仔牛とハムの小型パイ、牛タンとマスタードのサンドイッチ、小さなブリオッシュ。白桃、サクランボ、マスカットまで詰められている。一番奥には、フリッツ用のクルミもあった。
食堂車には行かなくても良さそうだ。
そうだった。私は前回も隣国エイトレンスの王立魔術博物館の『闇の禁書』を盗んで、ディアーナ姉様にアリス・スペンサー邸に匿われたのだ。だから、前回と同じように急に飛ぶ長椅子で現れた私の様子から、追われていると悟ってくれたのかもしれない。
もしくは、ディアーナ姉様の配慮だろう。
テレサたちは私が身を隠したいと思っていると知っている。今は隣国エイトレンスにもザックリードハルトにもいない方がいい。まもなく、私が何をしたか、調べがつくだろう。
数年前に魔力郵便車が配達する魔法が偽物にすり替えられる大事件が発生して以来、王立魔術博物館は術式の実行を厳しく取り締まっている。
ましてや、実行された呪文が『闇の禁書』のものだとすると、必ず検知し、実行者を突き止めるだろう。
「そうだ!」
「主、びっくりするよ。急に大きな声を出してなんだよ」
フリッツに怒鳴られた。テレサもテーブルの上にバスケットから昼食を取り出して並べているところで、ビクッとして顔を上げてこちらを見た。
「いかがなさいましたか?」
「あなた達のお仕着せをお借りしたいのよ」
「このメイド用の服ですか?」
「そうよ。メイドの格好をすれば、誰にも皇女だなんてバレないでしょう?」
「ははっ!主、そいつはないな!」
「分からないでしょっ、誰も皇女がメイドの格好しているとは思わないわ」
「どうだか……主、それは無理が」
「フリッツ、黙って、私は本気だから」
食堂車には行かなくてもすむと思った。そう思ったが、テレサのお仕着せを見た瞬間、別の考えが浮かんだのだ。
王立魔術博物館が私を探しているなら、列車内にも調査員がいるかもしれない。皇女の姿では歩けない。でも、メイドなら誰にも注目されないだろう。
「テレサ、そのお仕着せを貸してくださる?」
***
コンパートメントで、フリッツと一緒に昼食を取った後、私は食堂車にメイド姿で出かけてみることにした。そろそろ、イヴォンヌとカイが食事を終えて戻ってくる頃だ。
淡いグレーに染めた、ほのかな艶のある木綿サテンで仕立てた立ち襟、長袖、くるぶし丈のドレスに、白い胸当て付きエプロンを重ねて着た私は、食堂車に向かってテレサと共に歩いていた。
襟と袖口には細かなレースがあしらわれている。エプロンの肩紐と裾には、蔓薔薇をかたどった白糸刺繍が走っていて、さすがブランドン公爵家のお仕着せだった。
水玉を織り出した白いモスリンのキャップには、フリルもあるし、青いリボンが結ばれていた。フリッツはエプロンの下に隠れていた。
食堂車はパリの一流ホテルから持ってきたような贅沢な一室だった。
二十数席ある食堂車は、昼食を終えた客が引き上げ、大半の席が空いていた。白いテーブルクロスの上に銀器や磁器、カットグラスが並べられ、温かい料理が運ばれた後であり、片付けが始まっていた。
艶のあるチーク材の壁板に等間隔に窓が並び、飛ぶように過ぎていく緑豊かな外の景色が見えていた。窓は厚いカーテンが縁取り、本当にホテルの一室のようだった。
貴族達が食後にコンパートメントに行って休んでいる間に、使用人達がお茶を飲むことができる。テレサとミラ、レイトンと私は、ポットの紅茶とお菓子を楽しみに来たのだ。
大陸横断列車はとても楽しいものだ。車窓からの眺めは素晴らしく、テーブルの上にハンガリーの地図を広げて、私はテレサやミラ、レイトンと一緒にアッシュクロフト領のあたりを眺めて楽しんだ。
まだ王立魔術小学校に通っていた十一歳の頃に三人に出会っていたので、一緒に食事をしたりするのは昔からの習慣で、私はこの三人と一緒だと安心できた。
イヴォンヌとカイは既にコンパートメントに帰っていた。
「よ、皇女ちゃん。こんな所で何をしているのかな?」
聞き覚えのある、だがとても緊張させられる声がした。
私はゆっくりと目をあげた。
心臓が大きく跳ねた。
食堂車の音が遠ざかる。
銀器の触れ合う音も、列車の車輪の響きも、何も聞こえなくなった。
十三歳の私を捨てた声だった。
そこには、ジュリアン・エドワード・ヴェインが蔑むような目で私を見ていた。私の昔の婚約相手だった。十三歳と十六歳の婚約だった。少なくとも、十三歳の私は、正式な婚約だと信じていた。
その時からずいぶん大人びた様子の彼は十八歳になったということだ。
レイトンが彼を制しようとしたが、ジュリアンは私の耳元に口を近づけてきて、囁いた。彼のヘーゼルの瞳が私を硬直させた。
体の自由が効かない。
彼の目は冷たく光っていた。けれど、私を見つけた瞬間に息を詰めたことを、私は見逃さなかった。
「もしかして、俺のことが忘れられなくて、ここまで押しかけてきたのか?」
嘲るような言葉だった。だが、声の最後だけがわずかに掠れていた。
あれほど私と仲良くしていながら、十三歳の私を捨てた声だった。
——どういう意味?
「俺のことが大好きで、振られたことに耐えられなくて、二年も引きこもりだったんだって。悪いことをしたね。謝るよ」
彼の目は非常に冷たく光り、私をバカにしたような表情で私を見た。
私が彼に恋したと確信すると、ジュリアンは両家の婚約話が正式にまとまったかのように振る舞った。婚約の話は確かに両家の間で進んでいた。ジュリアンも私を婚約者と呼んだ。だが、彼は一方的に婚約を破棄し、姿を消した。
レイトンとテレサとミラが、同時に私とジュリアンの間へ入ろうとした。その途端、小さな動物が割り込んだ。
「なんだよ、うるさいな、もう!お前は誰だよ?」
「……うわっ!」
急にエプロンの中からリスが現れたので、ジュリアンはびっくりしたようだ。
「主がお前を追ってきただと?うぬぼれるな。主はお前なんぞに用はない。失せろ」
フリッツは私の肩にのり、腕組みをしてジュリアンに言った。
「君は……また……!?」
ジュリアンの顔から、一瞬で血の気が引いた。彼が見ているのは私ではない。フリッツの小さな爪だった。ジュリアンは顔面蒼白になり、後ずさった。
「ハリネズミに懲りずに……」
彼はサッと両手を後ろに隠した。その様子は少し滑稽に見えた。
「今は使用人達の時間ですわ。ヴェイン様、ご自身のコンパートメントにお戻りになられた方がよろしいのでは?」
私の口から冷たい声が出た。
「ずいぶんな口の利きようではないか。メイドの格好した可愛い娘がいると思ったら……」
そこまで言って、ジュリアンは自分が何を口にしたのか気づいたように黙った。
「主、こいつやってしまっていいか?」
フリッツは毛を逆立てて、歯を剥き出しにした。
「待てよっ!今退散するから!俺は今は何もしていないからなっ!」
ジュリアンはサッと踵を返して、走るようにして食堂車を出て行った。ひどく慌てて、給仕にぶつかった。
「うわっ!っなんだよ!どいつもこいつも!」
捨て台詞を吐いて、ジュリアンは退散した。
——目が覚めた。
私はなぜあんな人に恋をしたのか自分でも理解できないと思った。
こんな人を二年間も忘れられなかったことが、急にばかばかしく思えた。
それでも、胸の奥に残ったしつこい痛みまで、すぐに消えてくれるわけではないのだけれども。
——でもハリネズミってなに?
『俺のことが忘れられなくて、ここまで押しかけてきたのか?』
その言葉が頭の中で残響のように繰り返された。
「もうっ!知らないっ!」
私は頭を振った。
「フリッツ、行くわよ」
「どこへ?」
霊獣リスはぽかんとした顔をして私を見上げた。
「悪いわ、レイトン、テレサ、ミラ。私、頭を冷やしてくるわ」
「まさか……ロミィさま……危ないですわ」
「お待ちください」
レイトンとテレサ、ミラは心配そうな顔をして止めようとした。
察したようだ。
「まさか、主、空の散歩ではないな?」
「そのまさかよ、フリッツ、ついてくる?」
「もちろん!」
「イヴォンヌ様とカイ様にお知らせしなければ」
「お嬢様、絶対に危ないですわ」
皆が止めたが、後の祭りだった。
私は最後尾の展望デッキまで走り、外へ通じる扉を開けた。風と轟音が一気に吹き込む。呼び寄せた長椅子が、走る列車へぴたりと並んだ。
フリッツは私の肩にしがみついている。
「主、空に行くのは個人的には俺は好きだが、問題がある。今は王立魔術博物館の追手から隠れるんじゃなかったのか?」
「今はそれどころじゃないの!」
「その長椅子、列車中から丸見えだぞ」
「高度を上げれば見えないわ。行くわよ!」
私たちは、かなりの速さで走る列車の上空に一気に飛びたった。
「伝説のブルクトゥアタが俺の主なんて、最高だ!」
風を切って飛ぶ私の耳元で、フリッツが叫んだ。
あの日、十三歳の私は、兄にアダムと一緒にザックリードハルトの菓子店をお忍びで訪れていた。
隣国の紋章が描かれた馬車が店の前に止まった。
焦茶のノーフォーク・ジャケットの前を開けたままで、黄褐色のウェストコートと白い襟がのぞいたジュリアンは、差し出された踏み台を使わず、馬車の段から地面へ軽やかに飛び降りた。
その拍子に、風に乱れたダークブロンドの髪に午後の日差しが当たり、私は綺麗だなと思った。
——綺麗な人……。
頭を振って、思い出を振り払う。
十三歳の思い出が去来する中、私はフリッツに囁いた。
「さあ、フリッツ、ハリネズミとは何なのか教えて欲しいの。ここでなら、誰にも聞かれずに話せるでしょ」
ひゅっとフリッツが息を飲むのが分かった。




